「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが……」

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 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。……って、半月以上経って何を言っているんだと思っている方。毎年恒例のパターンです。そう、年末年始、ほとんど休みがなかったのです!人手不足は深刻です。

 そんなわけで、お正月休みなどほとんどなかったのですが、昨年から今年にかけて、仕事をさぼっての合間に読んだ本を紹介ます。神奈川新聞「時代の正体」取材班編『ヘイトデモを止めた街 川崎・桜本の人びと』(現代思潮新社)です。昨年6月にヘイトスピーチ団体のデモを粉砕するまでの記録です。

 問題は2015年9月にさかのぼります。神奈川県の川崎市の桜本という地区に住む在日韓国・朝鮮人のハルモニたち(おばあさん)が安保関連法案の反対デモを行いました。それを聞きつけたヘイトスピーチ団体が11月に桜本でデモを計画しました。在日の人たちにとって、魂を踏みつぶされるような、屈辱と悲しみでした(注・具体的なデモの内容は穢らわしいのでここには一切記しません)

 工業地域に近い桜本という地域は、コリアンタウンだけではなく、いろいろな出自の人たちが住む場所です。フィリピンやタイなどから来る「ニューカマー」や、他の地域からの「流れ者」も本に出てきます。かつては公害もあり、貧困家庭も多くありましたが、それだけ多様な人を受け入れる器が大きい街です。社会運動もさかんで、指紋押捺拒否運動も桜本から始まったそうです。

 余談ですが、少年隊のヒガシこと東山紀之も貧しかった少年期に桜本に住んでいて、在日コリアンの友人一家と遊んで交流を深めていたそうです。自叙伝『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版)には、穏やかな筆致の中にマイノリティや貧困層と寄り添う大スターのもう一つの姿が見られます。桜本という地を知るためにも格好のお勧めの本です。

 桜本に迫る二度のヘイトデモは、地元住民やカウンター(ヘイトスピーチに反対する活動をする人たち)の手によって、なんとか回避されます。しかし、人格や存在そのものを否定するような汚らしい言葉は、貧困や差別に耐えながら何十年も生活してきたハルモニたちの心に、あまりに辛く突き刺さり、涙を浮かべます。

「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが……」

 私は以前、ヘイトスピーチの法規制について記したことがあります。問題は幸福追求権と表現の自由の兼ね合い(ヘイトスピーチや差別デモを表現扱いするつもりはありませんが)、そして権力者に都合のいい法解釈の拡大です。その懸念から、法規制には慎重な立場でした。正直、今も悩んでいます。この本にも、同様の質問をした新聞記者を批判的に書いている箇所がありますが、私はその記者の立場もよくわかります。

 そして、法で在日外国人が守られないまま、行政は消極的な立場を取り続けます。市役所は一般論を繰り返すだけ、警察はヘイトデモ主催者に道路使用許可を出し、デモに抗議する人たちのほうを規制します。

 潮目が変わったのは、国会の衆参法務委員会です。与党側はヘイトスピーチに絞った理念法案を、野党側は人種差別そのものを禁止する法案を提出します。考え方の違いはあれど、ヘイトスピーチの根絶を目指したもので、両案をどう折り合いを付けるかが焦点となります。キーパーソンは、西田昌司参議院議員(自民)と有田芳生参議院議員(民進)です。

 西田議員は保守の急先鋒として知られています。民主党(民進党)議員の不祥事を鋭く追及し、大臣を辞任に追い込んだこともあります。保守論壇からも引っ張りだこです。かたや有田議員はかねてより外国人差別問題に取り組んでおり、ネット右翼から蛇蝎のごとく嫌われています。そんな両極端とも思える二人が、在日コリアンの参考人から話を聞き、桜本を視察し、現地の人たちと懇談します。こうして、折衷案として与党案に「付帯決議」が付けられた「ヘイトスピーチ解消法(規制法・禁止法とも)」は全会一致で可決されました。

 日本も加入する人種差別撤廃条約で差別の禁止・終了を定めています。そして同法付帯決議は国・自治体その他に差別解消の努力と対策の責務があるとしています(全文はリンク先を参照してください)。

 これで、より広範な外国人への保護をするとの日本政府の方針が定まり、市役所も警察もヘイトデモに強気で出られます。3度目のデモが予告されるなか、川崎市長は議会と協調しながら公園の使用許可を与えず、警察は道路使用許可は受理したものの、これまでと逆にデモ隊を包囲しました。住民、カウンター、警察に囲まれたデモは中止に追い込まれ、近所の公園では喜びの声が上がりました。

 そこには人情論や超法規的な措置はありません。住民の力が国民の代表者である国会議員を動かし、法律を定め、公僕である市役所職員や警察が民意のままに動いたという、民主国家として当たり前のことが行われただけです。

 たとえ犬猿の仲の議員でも、立場や国籍は違っても、共通の目的のためならば手を組み知恵を出し合って克服できることを示した記念碑的な出来事です。

 同書でも記す通り、この法律が完璧ではありません。むしろ不十分との意見もあります。逆に、権力側の濫用や拡大解釈による表現の自由の侵害への懸念も、私の中ではいまだに消えません(これはまた別の機会に書きます)。

 同書のナイーブさも気になります。主人公(というより狂言回し)として描かれている在日コリアンの女性は、ヘイトデモ主催者に手紙を書くなど「共に生きよう」と呼びかけます。日本人と外国人の交流施設で働く彼女の信念ですが、彼女の切なる願いをあざ笑うように、今この瞬間も醜悪な言葉をツイッターに書き散らかしています。世の中にはどうしても価値観を共有できない人がいるのもまた真実です。

 また、神奈川新聞「時代の正体」取材班は前著で「偏っていますが、何か?」と明記しているように、記者たちは「中立」という概念をかなぐり捨てています。大組織の新聞社としてはたいへん勇気のいることだと思いますが、一読者としては、ヘイトデモを行う人たちが何を考えているか、なぜ外国人をそこまで嫌悪するのか、その背景は何かを知りたいと思います(知ったところで理解も共感もできないでしょうが)。それは「中立」や「両論併記」とは異なるでしょう。

 やや厳しいことも書きましたが、大きな成功事例であることは間違いありません。差別は人間の心そのものである以上、完璧な解決方法はありません。それでも、少しずつでも前に進めていくことしかありません。

 戦争に反対するハルモニたちの小さな歩みから始まった騒動を、人類にとって偉大な飛躍にするために。桜本の件は貴重なケーススタディとなるでしょう。



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