「標的の村」

カテゴリー │映画・演劇・その他政治

 沖縄県名護市の市長選挙が今日告示されました。最大の争点は、米軍普天間飛行場の辺野古移設の是非です。どうして沖縄のひとつの市が全国的に注目されるのか、よくわからない人もいるでしょう。そんな人に観てもらいたい映画があります。

 沖縄・琉球朝日放送のキャスターでもある三上智恵氏が監督し、権威ある放送賞を数多く受賞したドキュメンタリー番組が元になった、「標的の村」です。

 米軍機が上空を頻繁に飛来する、沖縄北部の東村・高江地区が主な舞台です。そこに米軍ヘリポートが建設されることになりました。しかも、そこに着陸するのは事故が多発している輸送用ヘリのオスプレイです。先祖伝来の土地を米軍に「銃剣とブルドーザー」で収奪されてきた住民は、ヘリポート建設反対を訴えて座り込み運動をします。

 国はそんな住民を、運動を萎縮させる目的で、「通行妨害」で訴えます。被告には、なぜかそこにいなかったはずの小さな子どもの名前もありました。

 なぜ高江にヘリポートを作るのか?住民は沖縄防衛局(旧防衛施設庁とは異なる。後述)の役人に厳しく問いますが、明確な回答は得られません。映画にはありませんが、防衛局も詳細は知らされていなかったのでしょう。ですが、取材クルーはひとつの確証を持っていました。高江は米軍の「標的」だということです。

 1960年代、ベトナム戦争さなかに、高江の近くに「ベトナム村」という米軍の練習場が作られました。ベトナム戦の訓練として、高江の住民が駆り出され、ゲリラ役をさせられていました。たとえ訓練としても、住民は敵兵として銃口を向けられ、焼夷弾を投下されたと、琉球朝日放送や地元紙の記者は話しています

 高江上空には窓を開けた米軍の軍用ヘリが低空で飛行しています。米軍はおそらく高江の住民を標的とみなしシミュレーションをしているというのが取材クルーの主張です。

 2012年、オスプレイ反対の大規模集会が開催された直後、日本政府と米軍は、普天間飛行場への配備を決定します。怒りが燃え上がった沖縄は、台風直撃の隙を突いて普天間に通じるゲートを、何十台もの車でバリケードを築いて封鎖します。反対運動に加わった普通の女性は、逮捕されるのは怖いけれど、オスプレイは来てほしくないと話します。

 基地内の米兵が汚らしい言葉を浴びせ、大量の警察官が投入され、反対住民が強制排除され、バリケードが破られます。テレビの取材クルーだけでなく、新聞記者も、弁護士も、地元国会議員も、もみくちゃにされ排除されます。住民は居並ぶ警察官や防衛局員に叫びます。

 「ウチナンチュばかりでいつまでこんなことしてるよ!」

 「みなさんはオラとケンカやりたくないでよ!」

 ここには国や米軍による、ウチナーンチュ(沖縄人)同士の分断が見られます。住民を強制排除している沖縄県警の警察官も、東京の防衛省ではない、地方防衛局のひとつ、沖縄防衛局の現場の役人だって、多くはウチナーンチュです。住民同士を分断させ争わせるのは、諫早湾干拓事業や原発問題など多くの住民運動に見られる、昔からの政府のやり口です。カメラはその一部始終を収めています。

 この映画から見えてくるのは、製作スタッフの激しい怒りです。それは、テレビでなく、映画でしか伝えられなかった理由も雄弁に語ります。

 テレビ報道は放送法によって、政治的公正であること、多様な論点を取り上げることを義務付けられています。しかし、現地の報道機関にとって、基地の押し付けもオスプレイ配備も、中立的であろうはずありません。

 高江ののどかな風景、素朴な家族、三線に合わせた琉球舞踊など、本土の人が抱く一般的な沖縄の美しいイメージと対比させる形で国と米軍の横暴さを映し出す映像は、テレビならば偏向しているとの批判を受けるでしょう。

 ですが、映像作家の森達也氏が記すように、ドキュメンタリーに公正中立などあり得ません。基地の島に住む地元報道機関が、公正中立の原則を投げ捨てて怒りを表現したのが、このドキュメンタリー映画だと感じました。

 ただ、製作者の思惑とは異なり、本土の観客にどれだけ伝わったかは不明です。私が観た回では、「私たちには抵抗する権利がある」と住民が叫ぶシーンや強制排除されるシーンで笑い声が起こりました。第一、沖縄の基地の問題に関心がない人は、初めから映画館には足を運ばないでしょう(恥ずかしながら、かつての私もそうでした)。

 その意味では、今年のキネマ旬報文化映画(ドキュメンタリー)第1位に選ばれたことは大きな意味のあることです。興味がなくとも「立派な賞を受賞したのだから」と、本作を観て、少しでも沖縄に関心を持つ人が増えてくれたらと願います。


 

年頭所感・素晴らしき哉、寝正月!

カテゴリー │いろいろ

 明けましておめでとうございます。

 今年は久しぶりに寝正月を送っています。ゴロゴロしながらおせち料理を突いて、テレビを観たり分厚い新聞を読んだり、ネットをやったり、昨年買い出ししたまま「積ん読」しておいた膨大な本を読んだりと、生産性がまるでない生活をしています。机のケータイにはうっすらとほこりがかぶっていました。我ながらひどいね。

 ある程度予想はしていたのですが、正月番組のつまらなさは、想像を絶するものがありました。こんなものを誰が観るんだと思いましたが、ネットがなかったときには私もテレビと一緒に過ごしていたのですね。何の番組を観ていたのか、まったく記憶にありません。

 年末年始番組で目に付いたものが、ドッキリ企画でした。人が不幸になるのを望んでるのでしょうか。どうにもいやな社会だなー、なんて思いながらいくつか観てました。でも、視聴者が不快な思いをしないような演出上の工夫がされていたり、「このあとすぐ!」のようなCMまたぎの編集の仕方がなかなか上手くて、妙に映像の勉強になりました。

 悪しざまに書いても、年越しから年明けの定番テレビ番組はやっぱり観てしまうものです。レコード大賞、紅白歌合戦、お笑い番組、箱根駅伝など。これがなけりゃ正月じゃない、というものは、年賀状やしめ飾りと同様にやっぱりあるものです。

 「モノ消費」から「コト消費」へ、という言葉を昨年来たびたび目にしました。明確な定義はないですし、学術的な意味合いもよくわからないのですが、私なりに解釈すると、商品やサービスの機能を買うのではなく、その商品を使用したコト、すなわちイベント性にお金を払うということらしいです(違うことを言う人もいます)。

 ここでいう「イベント」とは、誕生日会やクリスマス、家族旅行といった大きなことではなく、もっと小さなコトもあります。パッと頭に浮かんだこととしては、クルマ離れの若者向けに開発したスポーツカーが、狙いと違ってシニア層に受けたというものがあります。昨年、首都圏にオープンした大型ショッピングモールは、ただ物を売るのではなく、長時間滞在してもらう体験型の店舗が多いと聞きます。これもまたプチ・イベントの創出だといえましょう。

 新聞やネットをざっと目を通すだけでも筆者によって意味合いがバラバラで、よく読むと昔から言われていたことを言葉を変えただけじゃないの?なんて思います。流通業界やマーケ業界がよくやることです。

 で、私にはやっぱり年越しや正月は消費すべき「コト」だったようです。つまらないテレビやスーパーの安いおせち料理だって、なけりゃさびしいものです。ただ、ハレの日だけでなく、普通の平日でも消費したいかと言われれば、どうでしょうか。消費意欲をあおるプチ・イベントを継続的にでっちあげるのでしょうか。

 そんなささくれた正月を送っています。明日から寝正月はやめて、ちょっと外出してきます。では今年もよろしく。