「笑っていいとも!」と〈大衆〉の終わり

カテゴリー │放送

 我が家には私が5歳くらいのときに描いたタモリの絵が残っています。広告の裏にクレヨンで描いた落書きですが、母親が捨てずに取っておいたものです。今もどこかにあるはずです。ポマードで固めた髪に眼帯(サングラスではない時代です)、タキシード姿、ハンドマイクを持っていたと記憶しています。

 当時のタモリは大人の世界の住民で、子どもが安易に近づいてはいけない、タブー感が漂っていました。エッチな話もそうですが、「今夜は最高!」などで魅せるジャズ演奏は、18歳未満お断りの、まさに大人の遊び場でした。

 「いいとも!」が始まったのが1982年。まだその頃は「お茶の間」という言葉が健在でした。確か田中康夫や景山民夫、山本晋也といった「マルチタレント」が出演していました。後に嵐山光三郎、志茂田景樹らも出演しました。「ニューアカ」ブームのような、知的に戯れるゲームの空気がありました。

 1985年、広告代理店の博報堂のシンクタンク「博報堂生活総合研究所」が「分衆の誕生」というリポートを出版し、「大衆から分衆へ」と言われるようになりました。我が家でもテレビが2台、3台と増え、両親、弟、私がそれぞれの個室で違う番組を同時間帯に観るようになりました。

 学校でも同じクラスの中でなんとなくの親しいグループに分かれるようになりました。仲が悪いわけではないのですが、スポーツ系(リア充系)、サブカル系(オタク系)、ヤンキー系、ガリ勉系など、趣味や好みなどで固まるようになりました(今で言えば「トライブ」か「クラスタ」でしょうか)。ただ、完全に分かれていたのではありませんでした。グループ間の媒介となったのは、やっぱりテレビ番組でした。

 同時代的なテレビ番組というのがありました。私の団塊ジュニア世代では「全員集合!」→「ひょうきん族」→「元気が出るテレビ」「ねるとん紅鯨団」「イカ天」あたりでしょうか。ただ、全世代的に観ており、共通の話題になったのが、「いいとも!」でした。

 「いいとも!」以外のテレビ番組が大衆娯楽(というより話のネタ)のシンボリックな存在でなくなったのは、テレビそのものが観られなくなったということもあります。別のところで記したのですが、美容院で美容師さんと話を合わせようとして、テレビに出ている人気タレントの話を振ったら、美容師のお姉さんはほとんどテレビを観てなくて、会話が成り立たなかったということがありました。同じようなことは、職場の大学生アルバイトとの間にもありました。

 理由として、多メディア化、娯楽の多様化といったことが原因として上げられます。NHK放送文化研究所が5年ごとに行う「国民生活時間調査」によれば、特に若い世代でテレビ離れが著しく見られます。2010年の調査では20代男性の20%が一度もテレビを視聴しないとの結果が出ました。若い社会人の多忙さもあるでしょうが、趣味や娯楽のタコツボ化が起こっていることでしょう。

 ただ、「いいとも!」だけは誰とも共通言語として通用しました。他の長寿番組と違い、「いいとも!」だけは何となく話が合いました。

 「いいとも!」そのものも32年間で変容しました。不自然なタイアップがほとんどになったり、かつてはトンガってた企画も無難なものになり、視聴者にすり寄ったものになりました。出演者も、どこのチャンネルでも見られるお笑い芸人や、知的さを光らせる「マルチタレント」とは全然違う、知的さを提供し消費させる「タレント文化人」になってしまい、一時は大衆にすり寄ってばかりの予定調和の番組でした。

 それは逆説的に、テレビの「クールなメディア」、すなわち視聴者が文句を言うためのツールとして機能していたとも言えます。

 これは多分、タモリ自身も感じてたことでしょう。自分とスタッフだけが楽しければいいという「タモリ倶楽部」や「ブラタモリ」のほうが好きだという人が多いのもわかります。やっぱりテレビは大衆のためにあるものだと「いいとも!」を振り返って思います。

 大衆のほうに変容が見られたのは、お笑いへのまなざしが鋭くなったことです。かつては「タモリ・たけし・さんま」のいわゆる「BIG3」は、テレビ低俗論の代名詞のようなものでした。特に「ひょうきん族」のようなおふざけとハプニング(すなわちそれがテレビ的ということですが)は、年配の人から毛嫌いされてきました。私も年配で立場のある人から「たけしのような……」「さんまみたいな……」との罵倒を何度も聞かされました。

 ところが、今はお笑い芸人は大人気です。これまでならば俳優養成所やアイドルの事務所の門を叩いた人が、お笑いの道を志します。お笑いの事務所付属の学校は門前に市を成しています。若手芸人のお笑いライブは大人気だそうです。

 そして、お笑いは実は頭が良くなければできないことも知っています。与太郎キャラの木久扇も、アホを演じる坂田利夫も、本当は賢いことを見抜いています。その頂点が、「BIG3」です。タモリがクレバーなことを、今や誰も疑いません。マスコミ業界以外の普通の人も、呼び方が「タモリ」→「タモリさん」→「タモさん」と変わってきました。32年のうちに大衆が成熟したということでしょう。

 そう祭り上げられて忸怩たる思いだったのが、実はタモリ自身だったのかもしれません。本人はまだ全裸で赤塚不二雄とSMショーをやっていたいのかもしれません。

 いずれにせよ、今日で「いいとも!」が終わります。終了後はどうなるのでしょうか?ひとつだけ確実に言えるのは、日本人がなんとなく共有してきた大衆文化がなくなることです。それは真の意味で〈大衆〉の終焉を意味するのでしょう。

 かつて日本人は、祝日には軒先に日の丸の旗を出し、毎朝神棚や仏壇に手を合わせるのが自然とされていました。「いいとも!」も日の丸や神仏と同じく、普遍的価値として抱かれてきた象徴的存在としてあり、そして今日を境に忘れられていくのでしょう。

 〈大衆〉が明日から〈分衆〉や〈微衆〉になる。そんなことを思いながら最後の「いいとも!」を観ようと思います。




 

「かわいい」で美術に切り込むジャンヌ・ダルク

カテゴリー │書籍・雑誌

 虚を突かれた、とはこのことを言うのでしょうか。たいへん興味深い視角を持つ本を読みました。

 和田彩花『乙女の絵画案内』(PHP新書)という本です。著者はアイドルグループ「スマイレージ」のリーダーで、絵画の鑑賞を趣味として、それが高じて大学で美術史を学んでいます。

 同書は、印象派前期のマネに始まり、印象派を中心に、ルネサンス期やバロック絵画、アール・ヌーヴォー、さらには日本の仏画、浮世絵、西洋絵画やイラストレーションまでを、「かわいい」という視点から解説していくものです。

 旧来の「画壇」からは、純粋芸術と「きゃりーぱみゅぱみゅ」を一緒にするなと怒られるでしょうし、好意的な評論家でもせいぜい、「クールジャパン」の代名詞「kawaii」だって世界中で受けているのだからと冷笑する程度でしょう。

 たしかに、美術館や画廊は、原宿や秋葉原に遊びに行くような気軽な感覚で入れないような雰囲気があります。それは、選ばれた人、すなわち王族、貴族、武家階級、大富豪ら上流階級のみに許された場であり、そこに展示される美術品は、教養ある人に独占されるものです。

 そして、教養は「学ぶ」ものです。日本でも国際教養大学の成功で教養学科(リベラルアーツ)が再び人気ですが、もともとはエリートの嗜みでした。日本でいえば和歌や茶道など古典を習うことでしょうか。教養としての純粋芸術はサラリーマンなど大衆には「お呼びでない」ものでした。

 そんな中で、著者は「かわいい」という視点で古典から近代の大家に切り込んでいきます。コンセプトは珍しいものではありません。興福寺の阿修羅像の表情に惹かれて若い女性が群がるのと同じです。興味の入口は何だっていいのです。彼女の特徴は、その立脚点が明瞭で、論究が深いことです。

 著者が絵画に興味を持つきっかけとなったマネの《鉄道》の魅力を、モデルの少女が身に付ける光沢のある生地でできたふわふわのスカートと大きなリボン、母親の腕の中の子犬に見出します。カサット《青いひじかけ椅子に座る少女》では少女のだらしなくも自然で無邪気な表情から、「ふつうであることのよさ、すばらしさ」を説きます。

 衣服や表情など表面的な「かわいい」だけが論じられるのではありません。ヴィジェ=ルブランの《バラを持つマリー・アントワネット》の解説では、宮廷画家とモデルの間柄に、互いの立場以上の信頼関係を感じ取り、「王妃」でなく一人の女性としての美しさを覚えます。「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」の言葉(実は創作)にあるような高慢さや民衆の憎悪の対象とは違うマリー・アントワネットの姿が著者の目には映っています。

 フロゴナール《ぶらんこ》のふわふわとしたドレスや女性と一緒に描かれる男性から、「かわいい」だけでない、女性の束縛からの解放を論じ、同時にフランス革命前夜のロココ時代と、女学生が中心となり花開いた日本の大正ロマン(後述)との共通点を指摘します。



 著者は「かわいい」を主眼に置いた美術鑑賞を勧めますが、美術を教養として「学ぶ」ことを否定するどころか、何度も強く推奨します。

 「でも最近は、絵を理解するキーポイントや意味が知識としてわかるようになり、絵の楽しみがさらに増えました。知識と想像。どちらの力も、つけばつくほど絵を観ることが楽しくなっていきます」(p.106)

 「でも、一つひとつの絵が描かれた歴史や背景も研究していくと、絵画鑑賞という海は私のなかでどんどん広く、より楽しいものになっていきます。
 美術史という学問が存在する背景には、私のような素朴な好奇心もあるのではないでしょうか」(p.127)

 彼女は芸術との幸福な出会いに恵まれました。美術だけでなく体育も学校教育では往々にして逆になります。知識の詰め込みや無理な技術の習得、勝利至上主義で、ジャンルそのものが嫌いになってしまう子どもの話もよく聞きます。一流の芸術家や評論家として食べていこうとする人は別ですが、まず「かわいい」というレンズを通じて好きになることで、美術愛好家として一流になれます。

 瞠目すべきは、著者の日本美術への傾倒です。菱川師宣の浮世絵《見返り美人》では、表情やポーズの不自然さから、リアリティよりも大切なものを絵師は描きたかったと看破し、今の若い女性がファッション雑誌を購入するように、お気に入りの美人画をファッショングラビアとして愛好していたのではと、現役人気アイドルならではの論考を述べます。

 黒田清輝《湖畔》から、「どこでもない日本」「日本でしか表現できないもの」を西洋様式で描くことの画家の戸惑いと闘争、そしてそれが「名画」として当たり前になってしまった、すなわち「名画」の「記号」になってしまったことの「悲劇」を鋭く突きます。

 最後に紹介されるのは、小林かいちの作品《二号街の女》です。著者も偶然知ったという小林かいちは、大正ロマン期に活躍した作家です。大正デモクラシーの時代に女子教育が普及し、女学生やモダンガール(モガ)が憧れになりました。そんな成熟した都市文化のもと、竹下夢二とともに女性に人気を博しました。絵葉書や絵封筒が人気で、画家というよりイラストレーターのような存在でした。やがて軍国主義の足音とともに、その名は忘れられていきました。私も不勉強ながら初めてかいちを知りましたが、著者は「かわいい」という視点を導入することで、一冊の本にもなりうる題材を再発掘し、光を当てています。

 同書に通底する隠れたテーマは、実は「挑戦」です。印象派画家の保守派との戦い、黒田清輝の西洋コンプレックスとの相克や教育・政治への視座、革命・戦争に敗北し消えゆくロココ時代や大正ロマン時代の成熟した文化……。同様に私はこの本を、旧態依然とした絵画評論や芸術教育への「挑戦」だと読みました。「かわいい」という武器を手に古い芸術の世界と戦うジャンヌ・ダルク。表紙や口絵のグラビア写真からそんな連想した、というと、さすがに本人も照れるでしょうか。

 でも、「お芸術」の世界に怯んだり色眼鏡を掛けて見ている人にはおすすめです。浮世絵の項など池上彰さんの解説のように簡潔かつ過不足ないものです。ぜひご一読を。そして美術館に足をお運びください。


 

『アンネの日記』は大嫌いだ

カテゴリー │書籍・雑誌

 「朝の読書運動」というものが広く行われている。静岡県内でも毎朝読書タイムが設けられている学校もある。25年以上前に通っていた中学校でも同じ取り組みがあった。教師が職員会議で不在の20分間に読書をする時間があった。生徒が各自本を持参する場合も、学校が校費で用意した短編集を回し読みすることもあった。

 おそらく人生で最も本に親しんだ時期で、主な近代日本文学作家はこの時に触れた。鷗外、漱石、芥川、井伏鱒二、太宰治……。活字中毒をこじらせ依存症になった今に至る。ただ、誰もが私のように本に親しむとは思えない。元来読書好きであったから嗜好に拍車がかかっただけで、運動オンチがグラウンドを毎日走らされてもマラソン好きにはならないのと同じだ。

 信じられないことに、教師による本の検査があった。当時は管理教育の真っただ中であり、「生活指導」の名のもとに生徒のかばんや机の中を教師が無断で調べ「没収」していた。れっきとした人権侵害で刑法の窃盗罪のはずだが、処分された教師も、ましてや警察に逮捕された教師もいなかった。

 生徒が所持していた本も「指導」の対象だった。教師が生徒ひとりひとりの所持した本を見て、「これはいい」「これはいけない」と、ご丁寧に「指導」してくれた。

 後に誰もが認める本の虫となる私は、幾度となく教師と衝突した。今だったら理論武装して対決できただろう。

 「芥川賞選考委員でも村上春樹や島田雅彦に賞を挙げなかったと非難されている。逆に芥川賞を受賞し選考委員もしていた高名な作家は外国人への差別発言を繰り返している。教科書にも載るほどの名のある作家であっても一冊の本の評価はかくまで難しいものである。ましてや一介の田舎教師のあなたがこの本を名作か駄作かなどと判断できる能力や資質があるのか」

 などと。だが当時の私には何もなかった。大人と対決する知恵も、知識も、人脈も、お金も、何もかもがなかった。4人、5人と立ちふさがる教師相手に、無力だった。何時間もの不毛な水掛け論が続き、本は教師に強奪された。大好きで、大好き過ぎて、家だけでなく学校でも読みたくて、友だちにも読ませてあげたかった本は、私の手元に戻ってきたとき、ひどく汚されたように見えた。

 教師のひとり、図書担当教諭は、中学生のためになる本をわざわざ教えてくれた。それが、『アンネの日記』だった。



 読みもしないのに批判すべきでないとその頃から知っていた私は我慢して読み通した。最後のページを閉じたとき、「こんなものか」としか思わなかった。教師への反発もあったが、それが正直な感想だった。純朴な男子中学生だったため、生理の記述にひどく戸惑ったことが一番記憶に残っている。

 実は世界中で長年読まれてきた『アンネの日記』は、父親が家族にとって都合の悪い箇所を削除するなど恣意的に編集したものだった。検閲だとの批判の声が高まり、1986年に原本通りの『日記』が出版された。現在日本で手に入る原本の翻訳書は2003年に発行されたものである。それが上の図版(文春文庫の「増補新訂版」)である(※)。

 ナチス・ドイツは非ドイツ的とみなした書物を焚書し、ヒトラーはユダヤ系の芸術家を迫害した。アムステルダムの隠れ家でひっそりとしたためた少女の日記はホロコーストの被害の象徴となった。ところがそれは歪曲されたものだった。その事実を知らずに『アンネの日記』を推奨した教師が平然と生徒の本を勝手に調査し略奪する――。ここまで笑えない皮肉はどんな「スベリ芸」の名人にだって不可能だ。

 今年に入って『アンネの日記』が東京都内の図書館や大型書店で大量に破られるという事件が頻発した。世界的なニュースにもなり、ユダヤ人団体が非難声明を出し、警視庁が捜査本部を設置した。今日の報道によると、関与したとされる人物が逮捕されたというが、まだ不明瞭な部分は多く、警察の捜査や全容解明に期待したい。

 いかなる動機であっても、どれほど理屈をこねようが、犯人の行為は正当化できるものではない。書物を傷つけることは学問の自由や言論の自由の敵である。『アンネの日記』をはじめホロコーストの象徴とされる書物を棄損することは、強制収容所へ送り込まれたユダヤ人ら600万とも言われる被害者の尊厳と歴史を踏みにじる蛮行だ。そこに義は微塵もない。

 それと同時に、生徒の持参した本を奪い、特定の図書を押し付ける教師もまた、挫折した画学生の慣れの果てであるヒトラーが嫌悪した芸術に「退廃」の烙印を押し、その一方で強制的同一化を図ったナチス・ドイツの政策と根本的に同じである。

 その教師は、アンネ・フランクが隠れ家でこっそりと記した日記と似て非なる『アンネの日記』を推奨した。それは反ナチスのシンボルという「偶像」を崇めていたに過ぎない。その姿は、ユダヤ人へのあまりにも歪んだ偏見を憎悪したヒトラーと等しい。

 今回の事件で『アンネの日記』に関心を持ち、もう一度「増補新訂版」を読み直そうという人も出てくるかもしれない。だが私がいくら悪趣味でも、二度と『アンネの日記』を手に取ることはない。

 (※参考文献・池上彰『世界を変えた10冊の本』文春文庫)



 

寅さんは今頃、どこを旅しているのだろう

カテゴリー │いろいろ

 寅さんは今頃、どこを旅しているのだろうと、ふと思うことがあります。

 日本人ならば説明不要の、映画「男はつらいよ」の主人公、フーテンの寅こと車寅次郎のことです。

 渥美清の死去の後、続編は製作されていませんが、寅さんがスクリーンから消えたというだけで、いつもと同じジャケットに中折れ帽、腹巻きに大きなアタッシュケースを持って、今も全国の祭りや縁日を渡り歩いているだろうと想像を巡らしているファンは大勢います。

 あの日、寅さんは三陸地方のどこかの田舎町に滞在して、翌日の小さな神社の祭礼にそなえて露店を出そうとしていたのでしょう。早耳の子どもたちが、学校帰りに興味深々にのぞき込み、中にはちょいとつまみ食いをしようなんて悪ガキもいたかもしれません。

 そこに、大揺れの地震、そして間もなく巨大な津波が襲ってきました。地元の人たちが一目散に高台へ逃げるのを見て、何が起こったのかわからないまま、寅さんも走り出します。しかし自然の力は軽く一人の人間を飲み込みます。何があったか理解できないままにアップアップ……。九死に一生を得て、見知らぬ避難所に運び込まれます。

 着るものも食べるものも商売道具もなくした、失意の寅次郎。どうなるんだ俺……。こんなとき御前様だったら何て言ってくれるだろう……。でも、避難所となっている学校の体育館は、自分よりもはるかに辛い思いをしている人ばかりです。身内も、住居も、わずかな蓄えも何もかも失い、それでも希望を信じて家族を探すためがれきに埋もれた家の跡地をさ迷い歩く人。何もする気力が起きず、ただ寝ているだけの人。

 そんな人たちを黙って見ている寅さんではありません。子どもたちを元気に笑わせ、落ち込む若者には気風のいい啖呵で発破をかけたり。青空の下で独自の人生論を語ったのかもしれません。

 もちろん、お決まりのマドンナも登場します。外見はきついが仕事熱心で根は優しい若い医者か(演・米倉涼子=想像)、自分も大切なものを失いながらも子どもたちの生活や精神的ケアに心を砕く小学校の教師か(演・満島ひかり=想像)、それともボランティアサークルに入っている大学生か(演・堀北真希=想像)。絶望と隣り合わせの避難所で被災者と向き合い一心不乱に仕事をするうちに、吹っ切れたはずの男性への思いが強く残ることに気付き、それを察した寅次郎は、風のように黙って別の被災地に旅立つのでしょう。

 「男はつらいよ」の車寅次郎は、実は古典的物語に多く登場する典型的なキャラクターです。固定化した共同体に突如闖入し、成員をひっかき回します。内部の人たちにとっては迷惑な存在ですが、沈滞した共同体は活性化します。

 そんな存在を、民俗学者の折口信夫は「まれびと」と呼びました。人間の形をして常世(異界)から時々(稀に)訪れる神のことです。他にも「道化」「異人」「トリックスター」など、様々な伝承や呼び名があります。神や霊だけでなく、乞食(こつじき。物乞いでなはく、修行のために各地を渡り歩く宗教者)や非定住民族、旅芸人などもそういう存在でした。精神障害者やハンセン病患者を「神様」として座敷牢に隔離しておくことも、少し前には珍しくありませんでした。

 そして、「まれびと」の宿命として、やがては共同体から出ていかなくてはならない、というのも各地に伝わる神話や伝承に共通するストーリーです。もちろん、寅さんも、です。

 東日本大震災から3年が経ちます。この雑文をしたためるにあたって、自分の震災の記憶が薄れていることにひどく驚きました。

 昨年の今日、「東北を忘れない」との言葉が、テレビでさんざん流されました。岩手県出身の若いタレントが、「忘れないって言うけど、忘れられるわけがない」と、吐き捨てるようにブログに書いていたのを見て、強くうなづいたことを覚えています。それなのに、自分のなかで東北への関心が低くなっていることに気付き、深く深く反省するばかりです。

 だからこそ、一度だけですが、被災地を自分の足で歩いておいてよかったとの思いもまたあります。そうでなければ、「そういえば震災なんてあったよなー」と他人事のように思い、そのくせマスメディアやネットの情報だけで知ったかぶりをして、「震災の風化を防げ」なんて2ちゃんねらーレベルの薄っぺらい言葉を振りかざしていたでしょう(そこから震災遺構の議論になるのですが本稿では略)。

 いまだ東北は復興途上にあります。岩手と宮城の被災がれきのかなりは片付いたようですが、インフラだけでは復興とは言えません。仮設住宅に住んでいる人も多く、「震災関連死」の犠牲者もいます。住民内での意見が割れる案件も報道から聞こえてきます。ましてや福島第一原発の見通しはまだ立っていません。

 報道からうかがうに、被災者や自治体の要望は細分化、高度化しているように思えます。答えがいくつもある問題、最初から答えなど出ない問題、政治判断が伴うものもあります。一介のテキ屋がボランティアでどうにかできる状況を超えています。

 「寅さん、これまでありがとう。でももういいよ。私たちはこれから自分たちで歩いて行くから」

 そろそろ被災地の人たちからそう声を掛けてもらうようにしないといけません。もう3年も経ったのです。

 そして、ふらりと葛飾柴又のダンゴ屋に舞い戻り、当日の状況や、復興過程や、東北人の人情や食べ物の美味さを、さくらや満男やタコ社長らに、自慢げに、でも流れそうになる涙を隠しながら、おなじみのべらんめえ調で語ってほしいのです。