凧よ、舞え

カテゴリー │静岡の話題

静かな五月晴れ。浜松の空には毎年、幾多もの大凧が舞う季節なのに、今年は不気味なくらいの静寂さです。

当地ではGWに浜松まつりというイベントがあります。

昼は初子誕生を祝う大凧を揚げ、連や組(町内会)の誇りを賭けて、他の連と糸切り合戦をする、勇壮なものです。

夜は御殿屋台の引き廻しです。「激練り」と呼ばれる、ラッパや太鼓のリードに合わせて若い衆が先導して盛り上げ、絢爛豪華な屋台から、優美なお囃子が聞こえてきます。

全国から何百万人もの観光客が訪れます。

ですから「三密」は必然です。早々に今年の祭典は中心が決定し、市民も仕方がないと受け止めています。

浜松で勤務していたとき、ライバル企業が地元の自治会と組んで、地域のまつりムードを盛り上げていましたのを恨めしく眺めていました。

「よーし、ウチも!」と思いましたが、伝統あるまつりです。色々としがらみがあって、余所者の参入は難しかったりします。

負け惜しみのように、地元連の凧印(マーク)のある小さな人形を土産物屋で買ってきて、目立たないように貼っただけでした(※こんなの)。


「いつかは売り上げドーンと大きくして、たっぷり寄付して、ウチの名前をでっかく入れたいですね」

親しかった他店の店長と、そんな話をしました。大口寄付の企業は、先導する車や若い衆が持つ連の旗や屋台の大提灯に「贈 ○○株式会社 浜松支店」と、スポンサー名が入っています。

お世話になっている浜松や地元のお客様への恩返し、堅く言うと地域貢献を考えていました。

そこには足掛け9年勤め、隣の市に転勤になりました。不思議なもので、勤務地域が替わると、興味も失いました。

しがらみや浜松市民の排他性といった、イヤな面を垣間見たこともあったかもしれません。

「あの音(激練りに使うラッパ)の音を聞くだけでイヤになる」

常連客とも、そんな話をしたことがあります。

それでも。

GW期間に居残り当番だったとき、外からお囃子が流れてきました。仕事を放り出して、御殿屋台を見に行きました。

100台以上の屋台が集う引き廻しイベントから、三々五々に別れて、自分たちのまつりに戻ります。そこにはさびしさすらありました。

まつり大好きな人は、3日間のために362日を過ごします。それは、一生にとって刹那の時間です。短い人生の瞬間を生き抜くために、凧を揚げなくてはと、部外者になった今でも思うのです。

来年こそは、凧が舞いますように。
……………
※文中のミニチュア人形はスミダ工芸というところで作っているようです。おすすめのお土産です(画像は無断転載です。すいません)。

参考→https://hyakujyu.hamazo.tv/a4410256.html


 

ヒサイシャ?

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 当地・静岡県西部を台風24号が襲って1日経ちました。現在、まだ電気が復旧していない地域があります。店内が真っ暗なホームセンターや、点灯していない信号(写真)を見ると、電気や水道が当たり前のように使える生活のありがたみがわかります。



 今年は災害が多発しました。深刻な被害に見舞われた岡山や四国、北海道の友人・知人を案じていましたが、私が被害に遭うとは。天災は忘れていても忘れなくてもやってくる。先人の教えに謙虚でなくてはならないと痛感しました。

 台風直撃の日、私は夜勤でした。職場の電気が止まり、非常用電源すらなくなり、対応に四苦八苦しました。ガラスが大破し、靴も靴下も濡れ、真っ暗な職場でスマホのバッテリーを気にしながら、radikoでラジオを聞いていました。いつもならタイムフリー機能を用いて家で聞く番組を、職場で堂々と聴取するのは、背徳的で、しかし二度としたくない経験でした。

 翌日出勤してきた同僚やお客様から、大規模な停電が起こっていることを聞きました。子どもを急かしてお風呂に入れて、自分の番になったら電気が落ちて、懐中電灯を照らしながら入浴したという主婦の方がいらっしゃいました。オール電化にしたのが裏目に出て、全く何も生活できないというお客様もいました。太陽光発電を導入している家からスマホの充電をさせてもらった人もいました。

 新聞によると、中部電力管内で102万戸が停電したそうです。それでも、人的被害はあまりないので、まだましなのでしょうが、当事者にとってはそうではありません。

 まだ復旧していない地区は、スーパーもコンビニも惣菜店も、閉店していました。困った客が、空いている地区の店に殺到しました。駐車場は満車、ガソリンスタンドには列が絶えませんでした。それにもかかわらず、ずっと笑顔で明るく元気に接客していた店員は素晴らしく、これこそ日本が誇る「おもてなし」でしょう。

 それと同時に、異常な光景だとも思いました。






 北海道の地震の後に広まったツイートです。

 今、この時にも、電力会社の作業員や、鉄道会社の駅員や、運送会社のドライバーや仕分けの人や、コンピュータ会社のSEや、……、その他大勢の名もなき人が、いつもの生活を送れるように、頑張っています。

 どんな災害のときでも、人への最低限のリスペクトだけは持ち続けるべきだと、当事者になって強く思いました。

 さて、私の家でも、些細ながら、ごく一部損壊しました。昔からお世話になっている工務店に直してもらおうと電話しましたが、先方も停電で、電話が通じませんでした。

 一刻も早い復旧を祈ります。


 

罪なきペンギンを檻に戻すな

カテゴリー │社会静岡の話題

 その男性の後ろ姿は、まるでピョコピョコと歩く動物園のペンギンだった。

 JR浜松駅近辺の人込みの中ですれ違ったその老人は、私の胸部よりも背が低く、男性としてはかなりの小柄だった。歩行を覚えたての幼児のように小股で歩き、やや足を引きずっている。それでもしっかりとした足取りだ。

 すれ違いざまに、その老人の顔を覗き見た。中折れ帽を小粋にかぶったその人は、他の人と決定的に違うところがある。目だ。戦場の狙撃手のように常に何かを射ようとする眼差しは、どこのデイサービスにもひとりはいる、世間話を好み、孫の成長に目を細める好々爺にはないものだった。

 背中を丸め、よちよち歩きで遠ざかっていくその老人を見て、元ボクサーと思う人は誰もいないだろう。この、最も不幸な形で有名になってしまった男性こそ、冤罪で45年以上も拘置所に収監されていた、袴田巖死刑囚(82)だ。

 私が袴田事件を実感したのは、地元の映画館で公開された「BOX 袴田事件 命とは」(高橋伴明監督、2010)という映画が元だ。元ヤクザの大物組長が製作したことでも話題になったが、映画そのものは興行収益も評判もそれほどではなかったと記憶している。ストーリーも袴田死刑囚が濡れ衣を着せられる過程を追ったものでしかない。反面、事件の概略を知るためには絶好の教材ともいえる。

 むしろ、上映後のトークショーにショックを受けた。壇上には高橋監督と、袴田死刑囚の姉、秀子さん(85)。監督による映画の裏話も面白かったが、何よりも秀子さんの印象が強烈だった。秀子さんによると、袴田死刑囚は長期にわたる拘留で、拘禁症状が悪化しており、異常行動もあり、面会した姉の顔も覚えていないという。

 そして、何よりも、秀子さんの凛としたたたずまいだ。背筋を伸ばして上品に椅子に座り、声を荒らげることも、声高に弟の無実を訴えることもなく、しかし、固い信念に貫かれたその姿からは、弟の無実を信じて50年近くも粘り強く司法の壁にぶつかり続けた人とはとても思えなかった。当時、78歳のご高齢だと後で知って、改めてひっくり返りそうなくらい驚いた。

 「袴田に死刑判決」一審判決を伝える新聞記事の写真にはこうある。「うすら笑いを浮かべて法廷に入る袴田被告」(毎日新聞1966年9月11日付夕刊)。映像監督の森達也氏の『たったひとつの「真実」なんてない』(ちくまプリマ―新書)に転載されている。記事にも今では絶対に活字にできないおぞましい表現で袴田死刑囚の人格まで貶め、反対に警察の捜査を持ちあげる。毎日だけではない。当時の報道は同じようだったと森氏は記す。マスメディアに煽動された大衆が、「袴田憎し」「袴田は死刑だ」「袴田を吊るせ」とヒステリックに叫んだことは容易に想像できる。

 袴田死刑囚と秀子さんは、その渦中に突然放り込まれ、しかし、約50年も無実を信じてきたのだ。誰がそんなこと真似できようか。

 事件さえなければ、袴田きょうだいは平凡でも幸せな人生を送っていたに違いない。時は右肩上がりで経済成長を遂げていた時代。国全体に希望と未来があふれていた。国体に出場してプロボクサーとしてチャンピオンを目指すが挫折して、味噌工場に就職したひとりの青年。ボクシングへの未練は断ち切れないが、それでも味噌作りの仕事が面白くなりつつあったころだろう。三十路を迎え、働き盛りで、身を固める話もあったかもしれない。

 どこにでもありそうな、平凡な青年の話だ。1966年8月18日、強盗殺人の疑いで警察に逮捕されるまでは――。

 この拙稿では、当事者の呼称を一貫して「袴田巖死刑囚」と記している。他の新聞や放送では「袴田巖さん」としている。すでに無罪扱いであるが、実は報道が間違いで、いまだに「死刑囚」である。まだ静岡地裁で再審が認められたというだけで、しかも静岡地検は不服として即時抗告をしていた。そしてきょう、東京高裁は、地裁の決定を取り消して再審を認めなかった。袴田死刑囚は、再び拘置所に収監されることもある。

 以下はすべて私の予想だ。弁護団は高裁の決定を不服として最高裁に特別抗告をするだろう。長い時間がかかる。そして仮に再審開始が決まっても、検察はできるだけ引き延ばそうとするのではないか。

 もっとはっきり言おう。検察庁は、袴田死刑囚が死ぬのを待っているのだ。

 検察を今どき、正義の味方だとか、強きをくじき弱きを助けると信じている国民などいない。国家権力を担う官僚組織として、過ちは許されない。被告人の死亡で控訴棄却(裁判打ち切り)になることが、彼らにとって都合がいいのだ。

 私の身勝手な予想が外れることを祈りたい。そして、法律的にも「袴田死刑囚」が「袴田さん」になることを切望する。

 最近も浜松駅北口近くで袴田死刑囚を見た。浜松市中心部の秀子さんの自宅から、市街地を散歩するのが日課だという。ピョコピョコ。小足で街中を歩く姿は以前と変わらない。地元の新聞によると、拘禁症状はまだ残るものの、かなり和らいできたようだ。

 この事件をうやむやにしてはならない。無実のペンギンを檻に戻すことなど、けっしてあってはならない。







 

「非知性主義者」の4年目の決意

カテゴリー │書籍・雑誌静岡の話題

 地元の書店で見つけた本を一冊紹介します。望月五郎さんという方が自費出版した『ほろ酔い復興支援独り旅』(発売元・静岡新聞社、2013)です。

 著者は1945年生まれ。静岡県庁職員を定年退職後に北海道・宗谷岬から鹿児島・佐多岬まで踏破し、その記録を出版しています。奥付によると、他にも四国八十八ヶ所を徒歩で巡礼したり、卓球チームの監督をしたりと、アクティブな活動を大いに楽しんでいるようです。

 もうひとつ、著者は県職員時代に福井豪雨や新潟県中越地震に災害ボランティアとして関わっています。東日本大震災のときもボランティアに志願しましたが、倍率が高く外れてしまいました。ひとりでできる支援を考え、被災地で居酒屋に入ってお金を落とそうと、一人旅をしました。茨城~福島~宮城~岩手の宮古までを巡った、行き当たりばったりの旅行記です。

 松尾芭蕉の『おくの細道』のように、大げさな感情表現を織り込まずに行程が書かれています。ここの居酒屋では津波が襲い集落が壊滅したとか、ホテルの食堂の従業員は姉を亡くして自分は奇跡的に排水溝から首が出て救助されたなど、内容こそ胸を突かれますが、筆致はあくまでも淡々としたものです。

 本には著者による写真も多く載っています。中には飲み屋で居合わせた客との記念写真もあります。明るく気さくな性格で、すぐ現地の人と親しくなり、そこで前述のような悲惨な話も忌憚なく話してくれるのでしょうし、隣り合った人から旅の情報を得たりもできます。行間から著者の人柄がにじみ出てきます。

 そうかと思うと、あとがきでは防災行政への厳しい文言も顔を見せます。ほのぼの旅行記から一転して行政マンの顔を出すあたりはさすがに東海地震が懸念される静岡県の元職員です。

 よくできた本ですが、商業出版と同等に評価するのは間違っているでしょう。「みちのく居酒屋めぐり」の副題から期待できるだけの観光情報はありません。あくまで著者の体験談です。コンセプトも散漫になり、構成も冗長なところが多く、一個人が旅行中に記していた日記をそのまま文字に起こしただけのように見えます。

 もちろん、それでかまいません。自費出版本はアマチュア劇団や草野球の試合と同じで、著者の友人が楽しく読んでくれたら十分役割を果たします。詐欺まがいの悪質な自費出版本ビジネスに比べると、本書の成り立ちは幸福なものです。

 なぜ今この本を紹介したかというと、現場に行くことの大切さをわかってほしいからです。

 一度でも旅行したところには愛着がわきます。その後、足を運ぶことがなくとも、心のどこかで記憶が引っかかります。テレビの旅番組でタレントがおいしい料理を紹介しているのを観て、自分が旅行をしたときのことを思い返したことは私にも何度もあります。

 「震災を忘れない」「3.11を忘れない」そんな空虚な言葉を新聞やテレビで見るたびに、「忘れられるわけないじゃん」と反発します。私も、たった数日ですが、甚大な被害を受けた場所に訪れた経験があるからです。

 ところが、一部の人は、積極的に忘れたがっている、というよりも、なかったことにするようです。福島第一原発の事故です。

 安倍首相はじめ政権与党や官僚、電力会社、一部のマスメディアは、当時の菅首相らの事故対応を責めたことすら知らない素振りをして、国内の原発再稼働に舵を切っています。海外にも積極的に輸出しようとしています。

 放射能被害を過剰に喧伝する一部の知識人や専門家には一切与しませんが、非インテリの私でも、原子力に頼るエネルギー政策に無理があるのはわかります。それどころか、福島の事故はヒロシマ・ナガサキと違って、現在も進行中です。

 故郷を追われて仮設住宅に住む人の多くは、自立ができない年配者です。その人たちに学者や経産省の官僚ほど原子力の知識があるとは思えません。でも、原発の怖さや不条理さは偉い政治家や官僚よりも身に染みて理解しているでyしょう。

 私もいつか、福島に行かなくてはなりません。紹介した本の著者のように、身ひとつでふらりと現地に赴き、居酒屋で現地の人と酒を交わしながら話をすることで、震災や原発の恐ろしさを体に覚えさせることが「反知性主義」ならぬ「非知性」の私にできることだと、4年目の朝に決意したのです。

 さあ、今から肝臓を鍛えておこう。待ってろよ、福島の地酒!


 

ドキュメント「催眠商法(SF商法)」

カテゴリー │社会静岡の話題

 祝日の遅い朝、食卓の上には我が家でめったに見ない食べ物が置いてある。後期高齢者の仲間入りをした母がにこやかな顔で説明する。

 「さっき来た人にもらったの。健康にいい食品だって」

 聞けば、××駅前に自然食品の店をオープンするにあたって、近くで説明会があると勧誘されたらしい。セールスマンにもらった試供品で、近所の知り合いにも声を掛けているとのこと。その中には私も知っている人もいる。

 「××駅なんて、めったに行かないし、タダだからいいよね」

 パソコンを起動させて、××駅近くの自然食品の店を検索する。それらしき店のサイトは見つかるものの、どうもうまく検索できない。

 詳しく聞くと、これから正式に店舗を出すところで、もうすぐ新聞の折り込み広告が入るらしい。その前に周知してもらうために事前説明会を開くとのことだ。母が手にした商品チラシには、扱い店の名もない。

 他にも靴下や腹巻きなども無料でもらったらしい。私は、健康にはいいかもしれないが決して美味いとは言えないレトルト赤飯を食べながら、学のない母親になるべく易しい言葉で説明した。何の効果もない機能をさも科学的に謳う商品があること。大勢の人がひと所に押し込められると群集心理で高額の商品も買ってしまうこと。店舗販売でなくとも会員になれば購入させられることもあり、それは生協などのちゃんとした組織ではない場合もあること、など。

  ※   ※   ※

 説明会の時刻の少し前に、調子のいい男性の声が聞こえた。ご親切にも高齢の母を迎えに来たらしい。母が連れて行かれると、いくつかの言葉をパソコンの検索サイトに入力していく。催眠商法、SF商法……。出るわ出るわ、母の勧誘手口と同じ事例が山ほどあった。

 こういうときにネットは便利だ。相手は次々に新手の手口を考えてくる。国民生活センターや警察なども、具体的な被害状況や相談内容をどんどんアップしていく。書籍や行政のパンフレットだとどうしても古い情報になりがちだ。私も冷やかしで絵画商法や宝石のアポイントメント商法を覗いたことがあるのでわかるが、詐欺の手口は日進月歩で巧妙になっていく。最新の情報が必要だ。

 早速、国民生活センターなどが設けているサイトでクーリングオフのやり方を読む。他にも地元の消費生活センター、警察署、行政書士会、市役所などのサイトで対策を考える。私は行政手続きが大の得意で、父が他界した時はほぼ一人で手続きを完了し、本気で行政書士への転職も考えたほどだ。

 それでも知らないことも多かった。クーリングオフは意外と簡単で、ハガキ一枚だけでできることも知った。3000円以上の商品が対象だから、かなり範囲が広い。食品や化粧品など消耗品は使用すると対象にならない。業者はそれを逆手に取り、最初に渡した健康食品などを食べた(使った)のだから買った商品は返品できないと消費者心理に付けこむ。もちろんウソだ。

 必要な知識も、専門家の連絡先も確保した。知人には弁護士もいる。業者との臨戦態勢を整え、羽毛布団を抱えて帰宅するであろう老母を待った。

  ※   ※   ※

 やがて母親が帰ってきた。話を聞くと思った通りだった。近所と聞いていたが、やや離れた隣の地区に車で連れて行かれ、そこには20人ほどが集められていた。最初は安いものを無料で渡され、段々と高額になっていった。最高額品は布団ではなくベッドだった。親しくしていた知り合いのSさんが、異様な雰囲気に気付き、母も一緒に連れ出してくれた。

 母は結局、500円でお釣りが来る食品保存用のタッパー2個と、近所のドラッグストアでよく見かける発熱靴下だけを手にしていた。やれやれ、と胸をなで下ろしたが、残された老人たちのことを考えると消化できない嫌なものが胸に残った。

  ※   ※   ※

 国民生活センターの「SF商法」のサイトによると、被害防止のためには、

 ・チラシや引換券を受け取らない

 ・誘われても行かない

 ・本当に必要かを冷静に考える

 ・空き店舗などを利用した期間限定や臨時の販売会には注意する

 とあるが、母が被害に遭わなかったのは、他にも幸運が重なった。ひとつには、私の住む地域は、近所付き合いが多い。自治会活動や自主防災会、祭典、葬祭などで隣近所と顔を合わせる機会がよくある。

 人間関係やしがらみがわずらわしいという人もいるが、世帯同士のつながりがセーフティネットになったということだ。母もよく近所と人とカラオケに行ったり、社会福祉協議会の高齢者支援活動のボランティアをしている。

 今回も、顔見知りのSさんがうながしてくれたから抜け出すことができたが、ひとりで参加していたらどうなっていたことか。また、会場に集まったのは10人少々だったらしい。警視庁のサイトではおよそ30人が集められるとある(その多くはサクラ)。他の注意喚起のサイトでも同じような記述があるので、参加を見合わせた人もいたのだろう。幸い群集心理が十分機能せず、母は逃げ帰ることができた。

 また、場所を提供してほしいとの申し出があった。もちろん断った。近所の人たちも、ほとんどの人が断ったらしい。だから離れた場所で販売会があったのだが、もし家の庭や一室を貸していたら、被害者だけでなく加害者にもなるところだった。これも田舎ならではの「寄り合い」で築かれたネットワークの賜物だ。

 顔が見える関係性の強みは、裏を返せば顔が見えない都市部や孤立した高齢者の保護が重要になるということだ。ご近所コミュニケーションだけでなく、人為的にコミュニケーションをしていく必要性を強く感じた。

  ※   ※   ※

 ともあれ、テレビや新聞の啓発を人ごとのように考えていた私にとって、気を引き締めなくてはと思わされた休日であった。


 

世界遺産にふさわしい富士山の「文化」とは?

カテゴリー │社会静岡の話題

 昨日、富士山が「世界文化遺産」に登録が決まりました。

 一度は国内暫定リストから外されたものの、環境等の問題をクリヤーして見事決定まで漕ぎ着けた静岡・山梨の関係者の方々、おめでとうございます。また、応援して下さった方々に、勝手に静岡県民を代表してお礼を申し上げます。

 さて、富士山は最初、「自然遺産」として登録を目指していたのですが、先述のように、ゴミ投棄やトイレなど環境面でひどい状態でした。行政やボランティアの方の熱心な取り組みで改善され、「文化遺産」として再度立候補し、今回の選定(しかも当初外された三保の松原まで!)と相成りました。

 「文化遺産」とは、「Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration (富士山-信仰の対象と芸術の源泉)」の名称からもわかるように、信仰(原初的な山岳信仰から新興宗教まで)と多くの芸術の題材になったことから由来します。紆余曲折あったとはいえ、ただ美しいというだけでなく、文化的側面が強く出ています。結果として、そちらの方がよかったかと思います。

 ここでいう「文化」とは何か?文学、絵画、詩歌、唱歌など多々浮かびますが、一言でいえば、「人間の営み」であろうと考えます。



 有名な葛飾北斎の「富嶽三十六景」のうち、最も有名な一枚です。富士山のほかに迫力ある波濤が目立ちますが、荒れ狂う波に翻弄されながらも船にしがみつく漕ぎ手や乗客の姿も見えます(Wikipediaの拡大図はこちら)。

 「富嶽三十六景」は、この図と同じように、富士山と同時に、人間も構図に入れた作品がほとんどです。しかも、大名や僧侶など特権階級でない、例えば大工、樽職人、旅人、人足、馬方、駕籠かきなど、現代ならばあまり絵画のモデルにならないような(失礼!)、肉体労働者が多く描かれています。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川を、旅人や荷物をかついで渡る馬子の姿も描かれています

 これが自然と文化の最大の違いです。文化の生成には人が絶対に必要です。それも、支配層やインテリ層だけでなく、竹取の翁が発見したかぐや姫から、カルト教団の本部まで、名もなき民衆が支えています。それを考えると、北斎は恐るべき洞察力だと慄然とします。

 今回の富士山の世界遺産登録も、自治体の職員から土産物屋さんまで、普通の人たちが尽力して成し遂げたわけです。それを私たちが受け継いで次の世代に渡さなくてはならないのです。日本一高く世界一美しい富士山を守っていかないと、と、名もなき庶民である私は思うのです。


 

ああ、栄光の跳ね馬よ!

カテゴリー │静岡の話題

 今日、浜松の駅前を歩いていたら、何台ものフェラーリが並んでいました。

 そのなかに、なんと、M・シューマッハが搭乗したF-1カーが展示してありました。


 いつの年のものか、マシンの型番はなにか、など詳しくはわかりませんでしたが、何度目かの黄金期のもので、とにかく貴重なものです。


 跳ね馬のエンブレムとチャンピオンナンバーの「1」をしかと見よ。


 シューマッハ専用マシンを示すネーム。
 シューマッハが握った「MOMO」のステアリング(小さい!)も、シューマッハの体を固定したシートベルトも見えました。
 ガラケーのカメラなのでうまく撮れなかったのが残念でした。


 未来のバリチェロか、それともマッサか。
 場所柄ブラジル系の人たちも多くいました。

 遠鉄百貨店の広場に展示してあったのですが、最後まで何の催しだったのかわかりませんでした。フェラーリのオーナーたちの集まりでしょうか?

 ともあれ、本物のF-1カーを見たのなんて、高校時代に南青山のホンダのショールームにあったマクラーレン・ホンダ以来でした。いやーテンション上がったなー。


 

名刺交換

カテゴリー │政治静岡の話題

 10年前に行った高校時代の同窓会は居心地が悪かった。病気で失意の帰郷をして、半年間の療養・ニート生活を経てようやくアルバイト先を見つけた矢先だった。同じ教室で机を並べていた同級生は、私よりずっと先を走っていた。海外で会社を立ち上げた人、静岡県内で有名な企業の営業マン、大手都銀の銀行マン……。立派な組織のキラキラした肩書きを持った人ばかりだった。

 みんなエリートビジネスマンらしく名刺交換にいそしんでいた。親交を温めようとしていたのは私だけだったようで、他の人たちにとっては人脈作りや情報交換の場所のようだ。場違いな豪華ホテルの雰囲気にも気おされて、早く帰りたかった。

 それでも私も輪に加わろうと、文具店で作ってもらった「芸能問題総合研究所 首席研究員」の名刺を手に会場をブラブラしていた。誰も話しかけてくれなかった。あからさまに無視したかつての友人もいた。それでも何人かとは親しく話すことができた。やや不遇な立場にいた人たちが多く、「類は友を呼ぶ」とか「負け組」とかの言葉が頭をよぎり、あわてて振り払った。

 その人もそんなひとりだった。個人的に彼に興味を持っていた私は、共通の知人を介して話をするようになった。いつもはつらつと元気に話す彼の体からは気迫がみなぎっていた。ただ、「今何やってるの?」の質問には少しだけ勢いが鈍った。地元企業の二輪工場で派遣社員をしている、と、やや口ごもり気味に答えた。

 結局、交換した名刺は彼の一枚だけだった。政治家を目指していて、市議会議員選挙に出ると語っていた彼の差し出した名刺には、今どき滅多に見かけなくなった「青年団」の文字があった(写真上)。



 それから数ヵ月後に市議会議員選挙が行われた。一時は出馬断念を口にした彼は、見事に上位当選を果たした。最年少当選とのことだった。

 その後の道のりはGoogleで検索すればいくらでも出てくる。市議会での活躍、再選、並行して現職大物代議士の落選と引退、その後継として政党支部長就任。同窓生の間でも彼の名前が話題にのぼることが多くなった。そして今日、もうひとつの肩書きが彼に加わる。彼の座る椅子に頭を下げる人も、彼の胸元に光るバッジを崇める人も、これまでとは比べ物にならないだろう。

 「先生」「先生」と呼ばれるようになるまでの彼の苦難と困難、そして屈辱を想像する人はそれに比べてあまりにも少ないだろう。地域のトップ校で生徒会長を務め、日本で一番頭がいい人たちが進む大学に通いながら、それに見合う職には就くことはなかった。野心の高さと現実の立場に歯ぎしりしたこともあるだろう。心ない言葉に傷つき、言われなき中傷を受け、唇を噛んだこともあっただろう。

 利いた風な口をきくなって?私だって同じ境遇だったからよくわかる。人は中身よりも組織や肩書で判断する。眠い目をこすりながら読んだ本の冊数や、流した汗の量よりも、名刺に書かれた役職や、バッジが示す職業や企業が物を言う。「青年団」の名刺も、「芸能総研首席研究員」の名刺も、世の中では何の役にも立たないことはよく知っているつもりだ。

 だが、ここが彼と私の今ある立場の分かれ目だった。彼は不遇をバネにして努力することができたのだろう。金も力も名声もない私のような人にも腰を低く接し、偉そうに説教する爺さん連中とも付き合える処世術を身に付け、したたかに、しなやかに大きくなれたのだろう。短気ですぐに全部ぶち壊す単細胞の私とはモノが違う。

 だから、「先生」になったあとも、彼にはそのときのことを忘れないでいてもらいたい。

 彼を公認した政党の党首は、さかんに威勢のいいことを叫ぶ。国土強靭化の名のもとに、大量の札束をバラ撒く。財源は金融緩和とインフレ目標で増収を目指し、反対する日銀総裁は法改正で首をすげ変えると言う。領土紛争に毅然と対応しようと、愛国心を植え付けられた子どもたちを紛争地帯へ送ろうとする。もちろん、党是は憲法改正だ。すなわち、「日本を、取り戻す。」

 抜群に頭のいい官僚出身の看板議員が、人気お笑い芸人をカメラの砲列の前でなぶり者にする。一部の不正を糾弾することでジャンヌ・ダルクを気取る議員が、貧困に苦しみ、働くこともできない人が大勢いて、その多くは福祉の手が届いてないことを知っていながら、ネット右翼連中が降る日の丸に囲まれ満面の笑みを浮かべている。彼女は憲法改正案から近代法の大原則である「天賦人権説」すらもぎ取ってしまった。

 念願のバッジを付ける彼は、知っているはずだ。不安定な雇用形態で、いつ首を切られるかわからない状況で働かされている貧困層や外国人労働者が世界的企業の工場に多くいることを。病院へ通う老女が茶畑のあぜ道のバス停に座り込んで3時間に1本しか来ないバスを待ち続けていることを。家の事情やその他の事情で私立の学校に通えずに退学を強いられて、非正規雇用の職業にしか就けないことを――学歴エリートだった彼にはこれはわからないかもしれない。

 彼の政党に投票した人たちは、強い日本を望んでいるのだろう。だが、弱さを知る彼には、優しい日本にしてもらいたい。武道にも精通する彼ならば、強ければいいという考えにはくみしないと思う。どれだけ強くとも、道を過った者は、尊敬を得られない。礼節を知る武芸者とヤクザ者は違う。

 名実ともにこの国を導く立場になった彼がおかしな方に行きそうになったときには、どうか青年団の名刺を配りながら頭を下げ続けた日々を思い出してもらいたい。強気のスローガンでカリスマ的人気を得る指導者の陰には、彼と同じ工場で油にまみれて働く労働者や、いつ首を切られるか不安になりながら働くフリーターが大勢いることを、彼は知っているのだから。

 私は今日も仕事だ。がんばろう。


 

人命と故郷の未来を政争の具にする奴らを絶対に許してはならない

カテゴリー │静岡の話題



 10月12日の「中日新聞」静岡版です。
 ご存じの通り、福島での事故の後、浜岡原発が一時的に稼働を休止しました。
 その後、再稼働が県内だけでなく全国的にも大きな焦点となっていました。
 そこで、県内の脱原発を目指す「有志」(これが後に大間違いだということに気付く)が、住民投票で決めようと署名運動を起こしました。
 県内の有権者16万人が住民投票条例制定の署名をしました。

 ところが、というか、素人の作った条例案ですから、当然不備もありました。
 議会であっさり否決、ということになりそうでした。
 そこで、県知事が、不備を修正してもう一度議会に提出すればいいじゃないか、と賛成の意向を示しました。

 そこからは議会各派の駆け引きがありました。
 最大会派の自民党県議団は全員一致で反対。知事与党の民主党会派も反対しましたが、一部議員が賛成に回りました。
 その他の会派も超党派で賛成しました。

 その結果が、冒頭の新聞記事です。
 「浜岡投票条例 県議会が否決」(「中日新聞」静岡版10月12日付)

 この一連の流れを、極めて冷やかに眺めていた知人がいます。
 彼は、静岡空港建設反対の住民投票請求(2001年、後に県議会で否決)の署名集めを熱心にしていた人です。
 原発のことも強い怒りを示していたのでしたが、今回の署名については冷笑していました。

 「いつ何の選挙があるか。誰が賛成しているか。それを見ればいい

 それで私にもピンときました。

 そして昨日の中日新聞静岡版です。


 「静岡維新の会設立へ 浜岡投票の団体代表ら参加」(「中日新聞」静岡版11月7日付)

 人命と故郷の未来を政争の具にする奴らを絶対に許してはならない。

 ★参考
  衆議院議員選挙……近いうち
  静岡県知事選挙……来年6月~7月
  参議院議員選挙……来年7月


 

実りの秋!

カテゴリー │静岡の話題

 先週、地元の神社で秋祭りがありました。
 地元の神社の祭りなので、観光資源でもなく、のんびりしたものです。
 複数の自治体と協力しての盛り上がりもいいのですが、子どもたちの歓声とともにゆっくり屋台(山車)が進む様もいいです。
 祭りのために久しぶりに友人知人と会えるのもまたいいものです。
 祭典委員長のYくん、お疲れさまでした。



 写真は夜の屋台ですが、昼間は黄金色に実った稲穂の中を祭囃子を奏でながらゆっくり進んでいきます。
 今年は天候に恵まれたため、のどかな雰囲気でした。
 勇壮果敢でもなく、お囃子が聞こえると小さな子どもやお年寄りも家から出てきて屋台をながめるという、田舎の祭りです。
 神聖な屋台が町内を3日間にわたってぐるぐる回って穢れを払い(あまり好きな言葉ではありませんが)、今年の収穫を感謝するのは、どこにでもある風景ですが、この、どこにでもあるものが大事なんだと思ったのです。
 何でもないようなことが幸せだったとは思いたくないのですが、道(ロード)を進む屋台を押しながら、そう思ってしまうのでした。

 日本とは、日本人とは、など紋切り型に語れないのですが、ひとつの原風景がこれです。
 「豊葦原の瑞穂の国」と称されるように、古来より日本では稲作がさかんで、米の存在価値は一農作物を超えて、神事や伝統文化にまで及んでいます。
 天皇陛下が春には田植えを、秋には稲刈りをする姿が新聞に載るのですが、これは重要な宮中行事なのだそうです。今では勤労感謝の日となっている11月23日も、元は新嘗祭という名で、秋の収穫を感謝する皇室行事で、祝日でした。
 かつて日米貿易摩擦の問題で、コメの輸入自由化が大議論されたことがありました。貿易摩擦や日米構造協議と呼ばれ、のちにWTO、そして現在のTTP締結につながる案件でした。
 他の産業や規制とは異なり、コメは日本人にとって特別なものだから自由化は断固阻止せよ意見も目立ちました。およそ論理的でないこの意見は、アメリカ国民には分かってもらえないようでした。
 
 私がこのことを強く実感したのは、学生時代、東北地方を旅行していたときでした。
 格安きっぷを使っての貧乏旅行でしたから、みちのくの鉄路を鈍行列車でのこのこと走っていました。
 たぶん宮城県あたりだと思いますが、車窓いっぱいに水田が現れました。
 夏でしたから、まだ青い稲でした。一面に広がる風景を見たとき、理屈抜きで、この国はコメの国だ、豊葦原の瑞穂の国だと理解しました。

 昨年の震災で、東北地方の第一次産業が被害を受けました。
 私がすぐに危惧したのは、広大な水田が津波によって壊滅的ダメージを受けていないか、です。
 現実にはなんとか深刻ではなく(それでも被害は大きく、塩害も心配されたそうです)、原発の風評被害のほうが報道で取り上げられました。
 それでも、日本人の原風景(たとえそれがフィクションであっても)である、田園風景を蘇らせることが急務です。
 少なくとも私の中では、東北の豊かな田んぼは、東北の、そして、復興の象徴であり、日本の象徴でもあるのです。

 そのためには、復興予算を 流用 ネコババした官僚を絶対に許さず、一人残さず手錠を掛けなくてはなりません。
 彼ら彼女らは、日本の歴史と伝統と未来をだまし取った、許されざる詐欺師たちですから。


 

明治からのクリスマスプレゼント

カテゴリー │静岡の話題

 我が家から歩いて5分もかからない天竜川の河川敷で、こんなものを見に行ってきました。
 これはなんでしょう?

 これはですね、明治に架けられた、天竜川の橋げたの跡なんですね。

 「木製「天竜橋」の土台発見 明治-昭和初期の浜松と磐田を結ぶ要衝」(「中日新聞」東海本社版12月21日―電子版)
 磐田市教委文化財課は20日、明治から昭和初期にかけて現在の磐田市と浜松市を結んでいた木製橋「天竜橋」の、橋脚の土台部分が、旧国道1号南側約300メートルの天竜川河川敷(磐田市豊田西之島)で見つかったと発表した。台風による出水などで河床が洗われ、露出したもよう。同課では「遠州地方の交通史や近代土木遺産を考える上で重要な発見」としている。
 リンク先の新聞記事にあるように、今秋甚大な被害を与えた台風15号により、明治時代に作られたと思われる木製の橋げたが発見されたのですね。
 その見学会と説明会がありました。
 (写真をクリックすると拡大されます。以下同じ)

 地元の方や歴史愛好家とみられる方が多くいました。
 「本当に忙しい人はこんなところにはいないんじゃないのか」なんて司会の方が冗談を飛ばしてましたが。

 元高校教諭で郷土史家の小杉達先生(中央)による説明です。
 橋脚それ自体は小さいものなんですね。その周囲を板で囲い、さらに木製の杭を何本も立て、水流の抵抗を弱めていたそうです。
 橋の長さは約1000m、これと同じものが向こう岸の浜松市中野町まで作られていたわけです。

 橋脚の幅に沿って並んでみたところです。
 幅が非常に狭く、せいぜい2mちょっとしかなかったそうです。
 後年になって車も通るようになりましたが、幅がいっぱいで、人がよけるための側道があったそうです。

 近くに寄ってみた写真がこれです。
 周囲に大きな石がありますが、橋を支えるために上流から人の手で持ってきたものだそうです。
 言うまでもありませんが当時は架橋のための機械などなく、材料集めから設計、施工まで人力で行われました。
 工事の時に歌う「ザンザ節」という歌まであったそうで、現在93歳の方が歌ったテープまで披露してくれました。
 「ヨイトマケの唄」のような、作業の調子を取るようなものだったらしく、この歌を歌える人は賃金が高かったそうです。

 とまあ、大イベントではなかったのですが、この歴史的・文化的価値は非常に高いものです。
 運輸・土木技術の史料というだけでなく、東海道の交通文化がわかる遺跡がまるごと出てきたわけです。ここからいくらでも歴史に思いを馳せることができます。
 明治期に天竜川の治水や植林を行った金原明善という郷土の偉人が、高い学問と技術を持っていた知識人で、「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川に、車も走れるような強度の橋を架けたのです。
 でも、明善翁だけではなく、その指導の下で、平成まで残った橋げたを作られた名もなき民衆の努力にも敬服します。
 奇しくも今年は東日本大震災があり、巨大な防潮堤が決壊し、科学の粋を集めた(はずの)福島第一原発があっけなく爆発するなど、自然の前には人間がいかに無力であるかを甚大な被害を払って教えられました。
 科学の力で驕った現代人が、木造の橋脚跡に学ぶことは多くあるはずです。

 小杉先生や磐田市の方によると、まだ発見されたばかりで、正確な建造年もこれから調べることで(しょっちゅう流されてそのたびに作り直されていたから)、材質もわかっていないそうです。
 「読売新聞」の記者の方が取材に来ていましたから、明日の地方版に掲載されるかもしれませんし、「広報いわた」にも載るでしょうから、そちらもお読みください。
 ロマンはまだまだ緒に就いたばかりです。すばらしいクリスマスプレゼントでした。


 

遠鉄百貨店新館オープン

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 浜松駅前の遠鉄百貨店が改装を終え、今日新館がオープンしました。



 入口もオシャレになっています。



 人気のスイーツ店には開店と同時に長い列ができていました。



 ところで、ここはとある病院の遠鉄バス停留所です。
 自家用車を持たない人、体が悪い人、お年寄りがいっぱいです。



 本当に困っている人が必要としているバスを減便して、豪華なブランドショップが入る立派なビルを建てるなんて、おかしな会社ですね、遠州鉄道グループって。


 

もうすぐ台風上陸

カテゴリー │静岡の話題



 ウチの深夜電気温水器を覆っている小屋です。
 もうすぐ倒れます。
 なんだか家も揺れているんですけど。
 マジ大丈夫かな?

 相当に激しい暴風雨が家を打ちつけています。
 かなり本気に避難も考えています。

 とにかく、お気を付けて。

 磐田市災防災ホームページ http://www.bosai.city.iwata.shizuoka.jp/


 

「私のことを嫌いでも、天竜川を嫌いにならないでください」

カテゴリー │静岡の話題

 忙しさや夏バテでまったくブログを更新できませんでした。これまで思っていたことなどをいくつか書いてみようと思います。
 まず最初は、あまり筆が進まない話です。このことを書こうとして、でもパソコンの前で指が止まってしまい、これがサボりの一因となった事柄です。
 つまり、天竜川の舟下りの事故の話です。もう1週間以上も前の話になってしまいました。その間に、5名の遺体が発見されました。大変痛ましいニュースです。
 
 私はこの川下りはやったことはありませんが、現場は知っています。当日の天候やニュース映像から見る川の様子から、川そのものの危険はほとんど感じられませんでした。降雨による増水もダムの放流もないし、むしろ、絶好の川下り日和だったといえました。
 なぜこんなことが、としか思えません。震災の時にも思いましたが、自然は時に恐ろしい牙を剥きます。畏敬の念を忘れてはならないと肝に銘じた次第です。

 事故現場となった天竜川中流はほんとうにいいところで、いろいろな遊びが楽しめます。ボートもカヌーも高校生からやっている人もいますし、釣りとかキャンプにも絶好の条件です。アウトドアが好きな方は、他にもいろんな楽しみ方ができるでしょう。
 ここは地元自治体の観光資源としても有用なところで、運営母体の天竜浜名湖鉄道もさまざなま集客努力をしています。
 続報で知りましたが、天浜線の社長は別の運輸・流通会社から請われて就任したそうです。アイデアが豊富な社長で、イベントを多く行って話題を作ったり、全線まるごと文化財として登録されるなど、やり手の方だったそうです。
 ただ、地元の新聞記事によると、社長に権限が集中しており、鉄道のほうばかりに目が行き、舟下りは現場任せだったとのことです。安全対策不備の指摘も多くなされています。
 素人の考えですが、現場に全権を任せられると、現場の士気は上がります。それをわかっていたのではないでしょうか。現場に任せられるほど安全で快適なように見え、それだけの実績も蓄積されていたのではないのでしょうか。ただ、自然はそれほど甘くなかった、ということかと思います。

 今季の舟下りは中止となったそうです。これほどの事故になった以上、やむを得ないことでしょう。
 来季も困難だと、静岡県知事(天浜線の役員でもある)はマスコミに語っています。
 でも、別の報道では、何らかの形で存続させるのが望ましいとも述べています。
 ポジティブな知事らしい発言ですが、私も同感です。
 新聞によると、天竜川の他の川下りレジャー会社にも、キャンセルや問い合わせが相次いでいます。仕方がないことかもしれませんが、もったいないというのが正直な感想です。
 天竜川流域は自然だけでなく観光資源としても文化資産としても素晴らしいところです。長野県の諏訪湖から飯田線の「秘境駅」の近く、今回の事故の現場、わが家から徒歩1分の河川敷、遠州灘へそそぐ河口、それぞれ魅力があり、楽しめる場所です。

 今回の事故で天竜川の観光イメージが大きく傷つくのはやむを得ないことだと思います。だからといって、地元の努力が無になることは、あまりにも辛いことです。
 被害者やご遺族へのけじめをつけて、安全対策が万全に整ったら、ぜひともまた足を運んでいただきたいと願っています。また、天竜浜名湖鉄道や周辺の施設・風景は、まるで時間が止まったような感覚を覚えます。
 決して冗談めかして言えることではないのですが、
「私のことを嫌いでも、天竜川を嫌いにならないでください」
 と、AKB48の前田あっちゃんのように涙ながらにお願いします。

 それにしても、地元経済界や知事・浜松市長らに配慮したのか、事故から1週間経たずに社会面の片隅に追いやる「静岡新聞」はそれでも地元紙と言えるのだろうか。「中日新聞」はまだ一面トップで掲載しているのに。もう購読やめようかな・・・。


 

川勝知事を使いこなせ!

カテゴリー │静岡の話題

 「藁科の一番茶、5工場でも規制値超 県が出荷自粛と回収を要請」(「中日新聞」静岡版6月15日付)

 との一連のニュースが静岡県内を揺るがしています。

 声を大にして言います。

 静岡のお茶は大丈夫です!

 ……と、私が声を大にしても文字を大にしてもあまり効果はないんですよね。
 やはり「発信力」が強い人にお願いしたいものです。

 静岡にゆかりの芸能人などに広報マンをお願いしてもいいんですが、お金などの面でなかなか難しかったりします。
 そこで、私が推薦したい人は、ズバリ、静岡県の川勝平太知事です。




 

磐田地区の知る人ぞ知るフリーペーパー

カテゴリー │静岡の話題

 ご当地の話題をひとつ。
 私は車を運転できないので、今日のような雨の日にはよく路線バスを利用します。
 そのバスの中にチラシが置いてあったのですが、地元の小学生が作成しています。
 (画像をクリックすると拡大します)



 「総合学習の時間」で地元の歴史を学んだのでしょうか。このように学習の成果を形にできたら地元の子どもたちは励みになります。
 こういう形での官民の協働はいいですね。

 そう思っていたのですが……、実は……。

 遠州鉄道の職員(もちろんいい大人)が作ったらしいのです!

 ……人目に触れるものなんだから、もうちょっと見た目に気を配って作ったらどうでしょう?とくに裏面。

 今日バスに乗って入手した「最新号」です。



 ワープロ打ちになっていて、何と広告も入っています(自社関連企業ですが)。
 でも、裏面なんて、フォントが異様で「電波」が飛んでるみたいな……。

 よく読んでもらえればわかりますが、実は中身そのものはそんな悪いものではないのです。
 磐田市の史跡やバスの歴史なんて、興味ある人にとっては参考になりますし、さりげなくモータリゼーション社会への批判ともとれる記述もあったりと。
 多忙な業務の合間に作ったものとしては職員の労苦がしのばれるのですが……。

 なんとも奇妙なオーパーツを見つけてしまいましたが、こうして私に手に取らせてネットで書かせたってことは、広告としては「うまくやった」「成功」ってことなんでしょうね。ちょっと悔しいです。
 バス本数をどんどん減らして「交通弱者」に冷たい遠州鉄道には腹立つことが多いですが(ついでに遠鉄百貨店の低下する一方のサービスも何とかしてくれ!)、他地域の方、ぜひ磐田に遊びに来てバスに乗ってみてください。「県庁おもてなし課」ですら作らないフリーペーパーの実物が拝めますよ。


 

藤に祈りを

カテゴリー │静岡の話題

 毎年書いてることで、すっかり恒例になってしまいましたが、現在、当地・磐田市(旧豊田町)池田の「熊野(ゆや)の長藤」が見頃です。
 今日は連休の谷間だというのに、それでも大勢の方がお見えでした。
 年配の方や家族連れ、でかいカメラを持った方もたくさんいてにぎわっていました。

 例年と異なるのは、震災の影響でイベントの大半が中止になってしまったこと。それでも、見事な花と漂う香りをたっぷりと愛でることができます。
 むしろ、今年の形式の方がうるさくなくてゆっくりとできるかもしれません。

 「熊野の長藤」とは、平家物語にも登場する熊野御前という美しい女性が、平宗盛の寵愛を受けて都に招かれたものの、故郷の母の具合が思わしくなく、宗盛に帰郷を和歌で訴えて叶えられたという逸話が残っています。能の演目にもなっています。
 そのため、親孝行な女性としてまつられており、熊野御前と母の墓は、とりわけ女性特有の悩みや病気に効果があると言われています。

 私は女性ではなく、それ以前に神仏にすがることなど大嫌いな人間なのですが、日本がたいへんな状態になっている今はもう神様だろうが仏様だろうが何様だろうがお祈りします。少ないながらもお賽銭を投じて、墓前に線香をあげて、東北が復興しますようにとお祈りしてきました。

 その関連の写真を何枚かアップします。いずれも被写体には無断です。ごめんなさい。






 多くの人の祈りが被災地に届きますように。



 「花より団子」ならぬ「藤よりアイス」の写真です。
 この子たちが今後の日本の復興を担っていくと考えると、頼もしいです。


 

SBSのニュースを絶対観るなよ!

カテゴリー │静岡の話題

 浜松のタクシー会社が、当地が舞台の「苺ましまろ」というマンガのキャラクターをラッピングしたタクシーを走らせているというニュースがありました。
 この「はまぞう」ブログでもタイアップキャンペーンをしていますし、新聞・テレビ・ネットニュースにも取り上げられたのでご存じの方も多いと思います。
 その通称「萌えタク」が浜松駅前に停車していたので撮影しました。






(クリックすると拡大します)

 で、タクシーにケータイを向けているところを、

 取材中のSBSのテレビクルーにバッチリ撮られてしまいました!

 もう、マジやめてよ~!
 メガネにリュックサック背負ってセンスのない服着てたので、映画の「電車男」なんかに出てくるステレオタイプのオタク像そのものじゃないですか~!
 私はむしろ浜松市のアニメマニアへの対応に怒りを覚えているのに~!

 というわけで、汗顔ものの私の姿がもうじきSBSのニュース番組で映ると思いますが、

 観るなよ!

 絶対観るなよ!

 録画した人!

 YouTubeやニコニコ動画にアップするなよ!

 参考・「萌えタクシー、車体に美少女 乗務員はアニメ予習 浜松」(「asahi.com」4月1日)


 

「やらまいか精神」自粛は是か非か

カテゴリー │静岡の話題

 仕事を口実に更新をさぼっているのも気が引けるので、地元のネタを。
 昨夜ニュースでやっていたので知っている人も多いかと思います。

 「浜松市「やらまいか」自粛へ 被災地に配慮」(「中日新閒」東海本社版4月1日付)
 浜松市の鈴木康友市長が、静岡県西部の気概を表わす方言「やらまいか」の自粛を検討していることが明らかになった。東日本大震災の被災者に配慮した措置で、期間は未定。鈴木市長はそれに先だって、今年の浜松まつりの中止や中心部市街地の活性化に消極的な姿勢を示すなど、率先して「やらまいか精神」の自重に努めてきた。
 (中略)市民の間には「市がそこまでやる必要があるのか」と過度の自粛ムードに当惑する人もいる一方、「今どき『やらまいか』なんて誰も言ってやしないもんだで別にいいら」との声もあり意見が分かれている。(後略)
 別の新聞(「静岡新閒」4月1日付)には背景がもっと詳しく書かれていました。
 「「もともとは行革審(行財政改革推進審議会)で議論されていたことだ」と市長に近い経営者は明かす。「財政の健全化を図るためには『選択と集中』が必要。『やらまいか』のスローガンで実施される無駄な事業やイベントは削減対象にしたいのが行革審の本音だ」
 今年の浜松まつりも中止となり、市長選も無投票となるなど「やらまいか精神」の有名無実化が進んでおり、「やらまいか」の方言そのものも使う人が少なくなった。震災が経費を削減する「格好の口実」(浜松市幹部)となったという。
 今年は浜松市制100周年にあたり、多くの記念事業が計画されているが、これらも中止や規模縮小が予想される。「やらまいか」から「やめまいか」への方針変更は今後の市制の大きな転換点となるだろう。
 うーん、住民でもない私が口を挟む筋合いは全くないのですが……。
 確かに、記事中にもあるように、凧のひとつも揚げられない今の浜松市には確かに「やらまいか精神」なんか感じませんからねぇ。
 でも、豊田佐吉や高柳健次郎、本田宗一郎ら郷土の偉人たちは草葉の陰で嘆いていることでしょう。


 

【速報】浜松まつり中止

カテゴリー │静岡の話題

 「平成23年度浜松まつりの中止について」(浜松市ホームページ)
 浜松まつり本部は、平成23年3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震を受け、平成23年度の浜松まつりについて、中止の決定をいたしました。
 浜松まつりは戦時中に一時開催しない期間がありましたが戦後、昭和22年に再開してから初めての中止となります。
 私見
 「やらまいか精神」とかほざくんだったら、被災地の復興祈念の凧揚げろ!
 そして経済を活性化させて儲けて稼いで義援金どさっと被災地に送れ!

 (参考)昭和63年秋、昭和天皇の病気により日本各地の祭典が次々と自粛されたときに、旧磐田市の府八幡宮では昭和天皇御病気回復を祈って祭典を挙行した。日本でもまれな、機転を利かせた措置だった。