「政治性」と〈政治性〉

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 話題の映画「パッチギ! LOVE&PEACE」を観てきました。大好評だった前作の「パッチギ!」から6年後、東京に移り住んだ朝鮮人一家のその後の物語です。
 映画は非常にいいものでした。なまじ前作がよかったので出来が心配していたのですが、そんなことはありませんでした。
 ただ、ちょっとだけ不満が。安倍晋三流に表現すると、狭義の「政治性」が余計だったような気がします。

 狭義の「政治性」とは、たとえば、在日一世が日本に渡った(渡らざるを得なかった)理由、彼ら彼女らが味わった塗炭の苦しみなどです。大文字の「政治」といってもいいでしょう。それはものすごく大事なことで、教科書にも満足に書かれていないことです。ある雑誌のインタビューで、主演俳優の井坂俊哉は1910年の日韓併合を知らなかったと答えていますが、驚くことではないでしょう。私だって、関心がなかったら知らないままだったかもしれませんので。
 また、井筒監督が表現しようとしたテーマにとって重要なエピソードです。単なる「戦争反対」とか「人権尊重」といった手垢が付いたものではありません。監督にとってはどうしても必要なシーンでした。
 しかしなお、私にとっては、狭義の「政治性」を挿入したことに違和感を覚えます。

 前作で描かれたのは、広義の〈政治性〉、あるいは小文字の〈政治〉です。前作の有名なシーンで、朝鮮学校の生徒だったキョンジャ(沢尻エリカ)に惚れた日本人の高校生(塩谷瞬)が「私と結婚したら(……)朝鮮人になれる?」と聞かれて悩み絶望します。続編ではキョンジャ(中村ユリ)のほうが同じ立場に立たされます。ただ普通に生活を送り、仕事をして、恋をしたいだけなのに、それができない。ただ国籍が日本でないというだけで。国会も自衛隊も米軍も関与していませんが、それこそが(広義の)〈政治〉です。

 在日外国人だけでなくマイノリティは、物心付いたときから〈政治〉の壁を感じます。外国人問題ならば民族的なアイデンティティの葛藤などです。
 また、差別が表面に出てくるのは、主に就職と結婚のときです。誰も表立って「部落は××だ」「○○人は出てけ」とは口にしません。誰もが「差別はいけない」と言うでしょう。ネットで威勢のいいネット右翼連中も、当事者を前にしたら黙りこくるでしょう。でも、就職と結婚などで、被差別者が自分たちの身内に入ってくるとなったら、躊躇するのではないのでしょうか?(匿名掲示板で「エセ人権野郎」との輝かしいレッテルを貼られたことのある私も、自分の中にそんな差別感情があることを否定しません)。
 前作も、続編も、そんな小文字の、狭義の〈政治性〉を観客に突き付けます。

 もちろん〈政治〉は「政治」に繋がるのですが、前作は大文字の「政治」を隠し、小文字の、身近な〈政治〉を描いたから、胸を打ちました。
 逆の例を考えてください。学校で見させられる人権啓発映画は非常に素晴らしいことを言っています。「差別をしてはいけない」「人権を大切に」と。しかしながらそれは大文字の、狭義の「政治」です。そんなもの面白くもなんともありません。第一、(大文字の)「政治」離れした若者にとっては「ウザい」だけです。

 前作で井筒監督は「政治性」をほとんど意識させず、青春映画の傑作を作りました。もちろんテーマを深めると、「政治」も見えてきます。しかし、「政治性」の臭みを消したために、観客に〈政治性〉を浸透させることに成功しました。それを考えると、本作で挿入される「政治性」は、まぎれもなく大事なことですし、監督もこう言っていますが、それは青春映画として必要だったかどうか、首をひねります。

 とはいえ、いい映画でした。今回はちょっと素直に書き過ぎましたので、異論がある人もいるとは思います。ぜひ映画館で観てから、感想とか反論とか寄せてください。


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