教養なきリーダーの悲劇と教養ある庶民がリーダーになる社会

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 私的な事情でモチベーションが上がらなくて更新できずにいました。いろいろなことがありましたが、考えを整理できないまま過ごして、怠惰な日々を過ごしてしまいました。「七つの大罪」(アニメではない)のグランドスラム達成も間近でしょう。

 そんななか、昨月から今月にかけて、美術展に行ってきました。

 ひとつめは浜松市美術館で開催されていた「ジョルジョ・デ・キリコ展」です。デ・キリコはピカソなどシュルレアリスムに大きな影響を与えた形而上絵画の画家です。もちろん私に抽象絵画のテーマや意味するところなどわかるわけもなく、おそらく画家以外に本当に理解できる人はいないでしょう。評論家や学芸員すらあざ笑うような絵と対峙して、へとへとになりながら美術館のソファーに座り込みコーヒーを口にした幸福感は、近年味わったことのないものでした。

 次に、静岡県立美術館で現在も開催している「美少女の美術史」展。むしろ私の本職の参考にと観賞したものです。やや雑多な展示だったのですが、歴史社会学的な切り口は私の好みにも合い、むしろ論文で発表もらいたいくらいでした。明治から大正時代の少女雑誌や少女漫画が「きゃりーぱみゅぱみゅ」に代表される「kawaii」の原型になっているのも確認できてよかったと思っています。
教養なきリーダーの悲劇と教養ある庶民がリーダーになる社会

 何度か書いていますが、私は一応「芸術学士」ではありますが、実際、芸術の素養はありません。「なんちゃって学士」「名ばかり学士」「イオンド大学芸術学部卒業」とか茶化しています。これは、アカデミズムが、ハイカルチャー、すなわち上流階級・中産階級向けの芸術を多く俎上に乗せていることがあります。

 実際はウォーホルのようなポップアート画家もいますし、近年ならクリスチャン・ラッセンの再評価の動きもあります。絵画以外だと、田楽や地芝居のような地方に伝わる伝統芸能、民謡など各国の民族音楽なども研究の材料になっています。それでも、ファインアート(純粋芸術)の研究者からしたら、「際物扱い」のように映るでしょうし、好意的な人でも、着眼点や視点などが先に立ち、評価そのものは後回しにされるでしょう。

 それならば、「キング・オブ・庶民」を自任する私が、純粋芸術の展覧会に足を運ぶのはなぜか?

 理由は簡単です。橋下徹になりたくないからです。

 橋下大阪市長と文化行政については何度もこのブログで書いてきました。彼の文化に対する不見識にはもはや言葉もありません。「可哀想に」「お気の毒に」としか言いようがありません。本人にも、大阪市民にも。でも、誰もが社会のリーダーになる可能性もあります。少なくとも、司法試験に通ってタレントとしてテレビで人気になれば。その時に、橋下氏と同じ醜態をさらすのか、それとも違う印象を与えるのか。

 いろいろなリーダーがいます。総理大臣や自治体の首長もそうですし、社長や管理職もそうです。それらに対抗するカウンターとしてのリーダーも必要です。昔ならば労働組合、現在でも市民団体やNPOを立ち上げる人も少なくありません。私の周りにも起業・独立する人もいますし、やや特殊なところでは、スポーツチームやアイドルグループのリーダーもいます。若干二十歳前後でグループを代表してメディアのインタビューで堂々と受け答えする人がいて、その一方で、底の浅さを露呈する人もいます。

 現在、書店には「大人のための教養」と銘打った本が並んでいます。難しい話をわかりやすく説明できるジャーナリストや予備校講師がテレビで引っぱりだこになっています。チャラいと思われているアイドルでも教養書を出版する人がいます。「教養」ブームといっていいでしょう(これも拙文参照)。

 これはいい傾向だと思います。高級官僚や政治家、大企業の経営者などが思い上がったエリート意識を持って国を動かした結果、「失われた20年」に入りました。それに連動したのか、ナショナリズムとも言えない排外主義も盛り上がりました。自国に誇りを持てなくなり、周辺の国を貶めることによって相対的にアイデンティティを保とうとする人も増えました。今、儲けるためだけに作られた「日本礼賛本」「嫌韓・嫌中本」が書店に平積みになっており、神田の老舗書店はネットで大々的に宣伝しました。いかにも薄く狭い人間がやることです。

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名な言葉があります。もちろん、度重なる失敗から世界的企業を作り上げた本田宗一郎のような経営者はいます。でも、大抵のリーダーは、深い自己研鑽を続けています。本田宗一郎だって、今の静岡大学工学部で聴講生として学んでいます。

 また、日本を代表する経営者の中には、深く自己研鑽を続けるあまりオカルトに傾倒してしまった人もいます。その人も、業績の上でも社会貢献の上でも立派な経営者として知られています。彼を慕う人は多く、彼の著書や名言集は書店で多く売られています。

 従来のリーダーに対するカウンターリーダー(ボランティアやNPO団体の主宰者)だって、そうです。強烈なリーダーシップを発揮するリーダーは、専門領域以外の知識や教養が深く、カリスマ的人気を博し、人々を惹き付けます。肩書きだけで成員を従わせようとすると、たちまちグループやチームは瓦解します。多くの市民団体がたどってきた歴史です。

 現代は政府〔自民党―大企業―霞が関〕対労働者〔社会党―労組〕の図式はとっくに過ぎ去り、日本の至る所で内戦が繰り広げられている状況です。誰もがリーダーを求め、リーダーにならなくてはならない時代です。「反知性主義」に陥らないためにも、「2ちゃんねる」で得た薄い知識(「○○人は在日だ」の類)ではない、歴史を見つめ自己を深く掘り下げる教養が必要で、私のような「ザ・庶民」が美術館やクラシックのコンサートに行く意味はそこにあると考えています。

 それと同時に、「ただ面白い」「ただかわいい」というだけで芸術に親しむことも絶対否定しないこともまた繰り返し記しておきます。


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