未来の法廷は文楽を裁けるか?

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 シェイクスピアの演劇を、現在観ることはできません。戯曲と残っている資料から想像するしかありませんが、忠実な再現は不可能です。
 日本でも同じです。歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国の「阿国歌舞伎」も、史料しか残っていません。
 演劇の保存ではもうひとつ課題があります。映像ソフトでは会場のライブ感までは収録できません。唐十郎や寺山修司らのアングラ劇や、「遊眠社」「第三舞台」などの小劇場演劇は、一部はDVDなどで観ることはできますが、当時の時代が作りだした熱狂は、テントや劇場にいた人しか味わうことはできません。
 演劇は原則として一回性の芸術で、再現不可能な作品です。

 ただし、日本の伝統芸能はその限りではありません。
 そのうちの一つは、能楽です。
 私はほとんど詳しくないのですが、室町時代の観阿弥・世阿弥の頃から一子相伝で芸を継承者に伝承しています。有名な『風姿花伝』すら自分の子どもにしか見せることは許されなかったそうです。
 それゆえ、かつての能楽の姿を現在に至るまで伝えることができます。
 (ただし、今は独立行政法人日本文化芸術振興会で伝統芸能の研修制度があり、世襲でなくとも能楽師になることができます)

 そして、もうひとつが文楽(人形浄瑠璃)です。

 何度か書きましたが、大阪の大学に在籍していた頃に、文楽の研究家の先生に執拗に勧められ、学生でも安い料金だったので、たった2度ほどですが、観劇しました。
 感想は、正直言ってよくわからないけど、古文が好きだったので筋は面白かった、というものです。
 どうしようもない感想です。小学生の読書感想文でもこんなものありません。
 ただ、一般庶民の家庭に育った者としては、これが精いっぱいだと思います。

 文楽はハイカルチャーです。教養芸術です。「学ぶ」ものです。
 これが大衆文化やサブカルチャーであれば、そんな必要はありません。テレビのリモコンを変えるか、本やマンガを読み捨てるか、インターネットで悪口を書き殴るかすればいいのです。
 でも、上流階級や中産階級の家庭に育った人ならば、純粋芸術は、どんなにつまらなくとも、学ばなくてはなりません。さもなくば社交界やギルドから仲間はずれにされてしまうからです。
 これは、学校で九九を習ったり、難解な純文学を読まされたり、ビジネスマンが日経新聞や経済雑誌に目を通さなくてはならないような、勉強と同じです。
 たまたま最近新聞サイトで目にしたのですが、中曽根康弘元首相がサミットのコーヒーブレイクで高尚な芸術や文化の話題が交わされると述懐していました。中曽根元首相は求刑も含めてサミットを「決闘の場」と表現していますが、それもあながち間違いではないでしょう。
 その、外国首脳と臆せず話せる「胆力」「深い教養」「コミュニケーション力」を、旧制高校で学んだとあります。

 日本の旧制高校の寮も、『ハリー・ポッター』シリーズでのモデルとなったイギリスのパブリックスクールも、上流~中産階級の子弟が通い、学力だけでなく、友人たちと切磋琢磨することで全人的な人格形成を目的とするものです。
 それらはいずれも、中曽根氏らエリートを対象にしたものです。
 彼らは文楽も能も知らなくてはならないでしょう。
 でも、私のような大半の非エリート層は、必ずしもそうではありません。
 文楽のようなハイカルチャーは、学ばなくてもいいものです。

 ならば、私に代表される、大衆にとって、文楽の存在意義とは何か?
 それは、「日本には『文楽』という伝統芸能が存在する」ということを知る、ということだと思います。
 私のように、たった2度しか文楽劇場に足を運ばない者でも、シェイクスピアに匹敵する伝統的演劇文化が存在するということを知っていれば、それだけでいいと思います。
 もちろん、そこから近松の戯曲や人形遣いのさばき方や絢爛な人形に興味を持ってもらうのがいいのですが、大多数の人たちは、そこまででなくとも、世界に誇れる文化が存在するということを知り、うまくいけば観ることができるということだけでいいと思います。

 その文楽をめぐって、大阪の橋下市長の騒動が長引いています。
 橋下市長の出自や来歴は選挙のときに雑誌で報じられました。ゴシップ的なことを抜きにして、橋下市長もやはり、私と同じ庶民階級の出身です。
 だから、文楽のこともおそらく何もわかっていないでしょう。
 数々のトンチンカンなトンデモ発言も、来歴からしたら当然の無理解です。
 こんな市長のもとで、文楽が途絶えたらどうなるか?
 歴史が、文楽を裁けなくなります。

 シェイクスピアの演劇が16~17世紀にどうだったかを今知る術はありません。
 でも、文楽は近松の時代がそのまま残っています。だから、評論家や学者は、この作品はいい、この人形遣いはイマイチだと言えます。
 その文楽がなくなったら、100年後、200年後、500年後の日本人は、文楽をそのまま知ることはできません。
 「昔、日本には世界で随一のギニョール(人形劇)があった」
 演劇は一回限りのライブですから、この事実を検証することはできません。シェイクスピアと同じく、戯曲と当時の資料から類推するしかありません。

 これが大衆文化のアイドルならば、行政によって保護する必要などありません。
 ハロプロが衰退して、AKBが人気になり、ももクロが後を追い、しかしなおハロプロのベリキューが人気で、モー娘も再評価されている、なんてもの、国や自治体が手を出さなくとも勝手に隆盛し衰亡していきます。
 歴史の裁判にかけられるほどのものではありません。歴史の検察庁に軽く起訴猶予されて終わりです。
 でも、ハイカルチャーは、常に歴史に裁かれ続けなければなりません。

 橋下市長が文楽(正しくは団体)への補助金カットを決めました。
 これで文楽が衰退してしまったら、500年後の法廷に提出する資料が消えてしまいます。
 証拠のフロッピーを改ざんした検察官以上の問題だと思いますが、法律家でもある橋下市長はそんなこと考えてもいないでしょうね。


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