教養と伝える力

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本物の教養があふれる本に出会いました。杉原幸子『六千人の命のビザ【新版】』(大正出版)です。

杉原千畝氏をご存知の人は多いでしょう。リトアニアの首都カウナスに領事代理として赴任し、6000人ものユダヤ人をナチスから救った外交官です。

ところが、私より上の世代、45歳以上の日本人は、杉原氏をあまり知りません。外務省が杉原氏を黙殺し続けたこと、本人があまり語らなかったことによります。

1991年にテレビで特集されて、日本でも広く知られるようになりました。その前年に出版されたのが、杉原幸子夫人による同書(旧版)です。
…………………………
「私の脳裏に、あの朝の光景がはっきりとよみがえってきました。リトアニアの日本領事館を取り囲んだ何百という人の群れ。疲れた様子で立ち尽くしながら、館内をのぞき込む目には、もう後には引けないという追い詰められた感じがはっきりと窺えました。そんな大人たちに交じって、おびえを隠し切れずに母親にしがみついている子供たちの姿も見えました。ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちでした。」(p.9)
………………………………
本文たった5行の引用で、ユダヤ人が置かれた深刻な状況と、これから家族に迫る嵐と困難を予感させます。

簡潔にして明瞭。国語の授業で習う作文の手法通りで、必要ない修辞法も、飾り立てる比喩もありません。

文章の組み立ても、命題→結論、疑問→解答または探求と、基本通りで、読書中に引っかかる言い回しは皆無です。

学者や評論家には書けない、無駄を削ぎ落とした文体を血肉として、杉原氏の職を睹した決断と、家族のたどった道のりを一冊にまとめた杉原幸子夫人。

彼女はどのような人物か。

同書によると、1913年に生まれ、父は教職で、香川県の志度商業高校では生徒の退学処分を廃止しました。

母はモダンガールで、腕時計やヒールのある靴を真っ先に買い、両親はテニスを通じて知り合いました。

幸子夫人は父の書斎の本を読み、高松高等女学校では小説や詩に親しみます。やがて短歌に傾倒し、後には短歌同人に入り歌集も出版します。画家や美容家にも興味を示したとあります。

運命に翻弄された欧州の生活でも、現地の家並みに興味を持ち、帰国後、当時珍しかったヨーロッパ風の意匠を取り入れた自宅を建築しました。

そのようなリベラルな家風で育った人が、お見合い結婚ができるわけありません。千畝氏との結婚は必然だったのでしょう。

読み進めると、やや意外な箇所があります。ユダヤ人だけでなく、迫害したドイツ兵にも同じように慈しみます。

幸子夫人は家族とはぐれて、敗走するドイツ兵に助けられて、ソ連兵と交戦状態になります。デューラーという若い将兵が犠牲になって助けてくれました。

「デューラー!」

筆者の文圧が上がるのはこの場面のみです。

ソ連の収容所に入れられて、シベリア鉄道で引き揚げる様子も、外務省を追われた千畝氏の失意や不遇時代も、感情と直截さを抑制した筆致で書かれています。

ここには、教養だけでなく、ヒューマニズムや「信仰」すら感じます。

今、書店には、人に伝える本が並んでいます。経営コンサルタントやアナウンサーら、伝える専門家による技術論です。

そこに不足しているのは、ビジネス技術や自己啓発ではなく、教養です。

幸子夫人まではおよばずとも、現在、教養が見直されています。大学でリベラル・アーツ教育が人気だったり、分厚い世界史や宗教の本が売れていたりと。

教養は、あればいいわけではありません。

もちろん、時には苦労して難解さや複雑な思考も学ばなくてはなりません。

ただ、確実に言えることがあります。

杉原幸子夫人の教養がなければ、同書は知られず、杉原千畝氏の存在と功績は、世に埋もれたままでした。



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