続・えー加減にせい

カテゴリー │社会

 頭に上った血がようやく元に戻ったようで、正常になりつつあります。おでこに貼っていた熱さまシートが効いたようです。
 前回の「えー加減にせい」という文章にいただいたコメントに4日間ずっと激昂していました。突っ込むべきところは山ほどありますが、感情を抑えてさわりだけ。

 私が主張したかったのは、文化防衛政策の必要性です。イタリアが発祥のスローフード運動がありますが、あれはマクドナルドの進出によって自国の食文化が脅かされるとのおそれから始まったことです。LOHASといった環境保護を気取った流行でもなく、日本で言われている地産地消のようにビジネスの面からのものではなく、いうなれば文化の自衛のための戦争です。
 外側からであれ内側からであれ、大企業が地域の食文化を破壊ないし衰退させた例は多くあります。食文化以外にも視点を広げると、膨大な例を示すことができます。たかが巻き寿司ですが、流通業者が目先のゼニ目当てに広めたために、「関西独自」というアイデンティティ(あるいは「売り」、または観光資源)をひとつ失ったのです。大阪に10年間いた私としては、本物の戦争で領土を奪われたように辛いことです。

 「土用の丑の日」は文化でしょうか。もちろん、立派な文化です。
 天才プランナー平賀源内の功績はすばらしいものです。なぜならば彼は無から有を作ったからです。コロンブスの卵を立てたからです。しかも江戸時代から今日まで廃れずに残っているのですから。
 広告のコピーやアイデアに著作権はありませんが、優れたクリエイターには惜しみない賞賛が贈られます。私が知るだけでも糸井重里、川崎徹、仲畑貴志、佐藤雅彦らの作品は20年以上、あるいは30年近く経ってもいまだに話題に上りますし、マスコミ論、広告論、消費社会論、あるいは都市論でも触れられるほどです。この人たち以外でも、広告業界内部での有名人は多くいるでしょう。彼らは優秀なビジネスマン(経済的効果を上げたという点で)のみならず文化人(広告の情報や娯楽の機能を提供したという意味で)でもあります。源内と「土用の丑の日」キャンペーンはそのはしりです。
 翻って、「春の土用の丑の日」なる愚劣で醜悪なキャンペーンは、稀代の名プランナー源内のアイデアのただ乗りに過ぎません。パクリの名にも値しません。これをパクリだというのならオレンジレンジに失礼です。ただ乗りはクリエイターがもっともやってはいけないことです。それを、養鰻業者や日本最大級の流通グループがやっているのです。
 なぜやるのか。ゼニになるからです。そこには品性のかけらも見当たりません。

 かつては私も、伝統芸能や地域文化の保護を声高に主張する人に辟易していました。時の流れに打ち克てず崩壊したら、しょせん伝統だの文化だのはその程度のものだと思っていました。
 ところが芸能総研の活動をネットで始めるようになり、特に当地に戻り、かつて普通にそこにあったものがなくなっていることに驚きました。それは多くの人にとっては文化とも伝統とも呼べない――太巻き寿司や土用の丑の日と同程度の――取るに足らないものです。しかし広義の「芸能」研究を、地方でやっていると、中央のマスコミや大学の先生が無視するようなものも見えてきます。そしてそれは、無残な形で現れてきます。時の流れではなく、金の流れに打ち負かされています。グローバル化したニューエコノミーのなかで、金こそがすべてと、些細なものだけれど大事なものが無くなったり朽ち果てたりしています。
 だから私はイタリアのスローフードなど反グローバリゼーションの運動に連帯の意を示すためにも、伝統芸能や地域文化を保護する政策が必要だと強く感じています。それでも私を「了見が狭い」とおっしゃるのなら、その非難は甘んじて受けましょう。

 この話はこれで終わります。ちょっとだけ書くつもりでしたが、どうしても怒りが入って感情的になってしまいますので。
 最後にひとつ。コメントで私のことを「被害妄想」とも書かれていますが、「妄想」はれっきとした精神医学用語です。私は足掛け8年、精神科や心療内科に通院していますが、一度も妄想症状が現れたことはありません。妄想が生じるような精神疾患(統合失調症など)でないことは診断書を見ても明確です。
 不正確で誤解を招く恐れがある言葉を、ネットで匿名で書き殴っている人ならばともかく、人権問題を論ずる立場にある人が安易に用いるべきではありません。


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この記事へのコメント
文章を読む限りでは、感情が収まってないようで・・・。言葉よりも文章で感情的になるのが今の時代は一番怖いからね。くれぐれも熱くなり過ぎず、冷静に、冷静に。
「言葉で人を斬ったら、つける薬はない」
友として、アドバイスさせて頂きました。
Posted by masa-tatsuta at 2007年04月22日 07:10
いろいろ書いてくれたみたいやね。当地のウナギは春夏秋冬いつでも最高ですよ。ただ、その他の(かつて君が訪れたときの)浜松は相当変わってしまっています。どうにかしなきゃいけないのですが、なかなか難しい問題です。

北海道がホットですね。ネットで情報交換しています。mixi入ってたらその手のコミュニテイ見てね。私も微力ながらネットワーク構築に協力しています。
外山候補は今回、熊本市議会議員選挙に立候補しています。熊本の友人Sくんにお願いして資料を送ってもらったりしています。
若松候補も選挙期間中。芦別も夕張同様、元炭鉱地で財政が厳しいって聞いたけど、若松氏は凡百のタレント候補とはかなり異なる印象があるので期待したいところです。では。
Posted by 大橋輝久 at 2007年04月22日 08:47
言葉で傷付けたことには謝罪します。
しかし文化論は決着はつきませんね。
鰻も海苔も消費を高めるための仕掛けです。
地方に止まらず、また季節に限定されないのは消費を高めるために貢献していると思います。
文化は広がり交流してこそ鍛えられます。その一端を担うのもクリエイターでしょう。
オリジナリティーに質があるのは当然ですがそれを支えるのは大衆消費文化です。
地方が個性を残してブランド化するのか、メジャー化してブランド化するのかは選択肢のひとつだとは思います。
それは大衆が決めるのだと思います。
Posted by 小笠原です。 at 2007年04月22日 10:18
謝罪なんていいですよ。ただ、一般的にですが、「先生」と呼ばれる人が発する言葉がものすごく軽くなっていることは事実ですが(先の選挙で痛切に感じました)。
この論題は芸能人に例えればわかりやすいでしょうか。当地出身の長澤まさみさんがファン(大衆)に支持されてどんどんメジャーになっていくのはうれしいし、本人にとっても活躍の場が広がり、女優として経験を積み、やがてはアカデミー賞を、と想像するのも夢があります。でも地元民としては、どこかで「磐田市出身」とかは残して欲しいと。彼女と親しかった同級生や近所の人は、もっとはっきりと「そんなにメジャーにならないで。昔のまーちゃんのままでいて」と思っているかもしれませんし。そういうことでしょうか?
問題は、先生や私のような文化論的視座を、生産者や流通業者や伊藤元重ら御用学者がまったく持っておらず、売れればいいとだけ考えていることです。それは例えば、タレントは商品だから売れなかったら使い捨てればいい、代わりはいくらでもいると考えているプロダクションやプロデューサーと同じでしょう。また大衆もそうやって生み出されたアイドルを簡単に支持し、飽きたらすぐに離れていくんですけど。
Posted by 大橋輝久 at 2007年04月22日 14:49
文化は消費される。
だからこそ戦わなければならない。
そういうことだと思います。
Posted by 小笠原です。 at 2007年04月22日 19:13
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