2012年03月29日09:46
「価値観のジャグリング」≫
カテゴリー │映画・演劇・その他
先週の土曜日に浜松市中心部に遊びに行ってきました。
駅前では全日本高等学校選抜吹奏楽大会の出場校によるプロムナードコンサート(この場合は簡単に「青空コンサート」のようなもの)が行われていました。さすがに全国大会出場校ばかりで、素人の私ですら音の違いが一目、いや、一聞瞭然でした。
その足で落語の独演会に向かいました。地元出身の方で、まだ初々しい噺でした。延びしろの多い若い落語家です。
さらに、地元百貨店が主催したイベントでは人気お笑い芸人や猿回しのショーが行われていました。
他にもミニシアターではひと癖もふた癖もある映画が上映され、別の地域では市民劇団の公演もありました。翌日は先の吹奏楽大会の本番があり、高度な演奏が聴けました(そちらは私は行けませんでしたが)。
そう考えると、浜松市の文化は一地方都市としては一般の広がりも専門的な深さもかなりあるのではと思えてきます。
中心部の活性化が問題となっていますが、ここまで行政も民間も文化的関心の高い地方都市もあまりないのではと改めて考えてしまいました。
というのも、最近、演劇ジャーナリストの米屋尚子氏の『演劇は仕事になるのか?』(彩流社)本を読んだからです。
劇団の経営や俳優・スタッフの経済的問題を論じた本だと思って購入したのですが、半分当たって半分は大外れでした。
特定の分野の演劇ではなく、もっと広い、文化政策全般の「アーツ・マネジメント」についての本でした。
第一印象は、記述が散漫で焦点が合いません。これも当たり前でして、演劇と言っても一言では言い表せないくらいのとてつもない多様な形式・形態があるからです。
学校の体育館を巡回する「劇団たんぽぽ」も、宝塚歌劇や劇団四季の大規模なミュージカルも、アングラのテント劇団も、小劇場演劇の第三世代も、能や狂言や歌舞伎など古典芸能も、梅沢富美男や早乙女太一などの大衆演劇も、吉本や松竹の新喜劇も、みんな演劇です。
アマチュア主催だって、高校や大学の演劇部が地元のホールを借りるのも、社会人が仕事終わりに稽古して友人たちを半分強引に誘って公演するのも、東京から劇団や演出家を招いたりワークショップを開くのも、みんな演劇の範疇に入ります。
定義がないから、演劇論などまとまるわけないのです。
それを何とかまとめようとの著者の苦心の跡が見て取れます。
同書は演劇論の本ではなく、「アーツ・マネジメント」についての本です。では「アーツマネジメント」とは何か。演劇のもろもろを串刺しにして、いろんな資源や法やノウハウなど「多様な価値観」を「ジャグリング」しながら演劇と文化を盛り上げよう(観るほうも、やるほうも)というものです。
駅前では全日本高等学校選抜吹奏楽大会の出場校によるプロムナードコンサート(この場合は簡単に「青空コンサート」のようなもの)が行われていました。さすがに全国大会出場校ばかりで、素人の私ですら音の違いが一目、いや、一聞瞭然でした。
その足で落語の独演会に向かいました。地元出身の方で、まだ初々しい噺でした。延びしろの多い若い落語家です。
さらに、地元百貨店が主催したイベントでは人気お笑い芸人や猿回しのショーが行われていました。
他にもミニシアターではひと癖もふた癖もある映画が上映され、別の地域では市民劇団の公演もありました。翌日は先の吹奏楽大会の本番があり、高度な演奏が聴けました(そちらは私は行けませんでしたが)。
そう考えると、浜松市の文化は一地方都市としては一般の広がりも専門的な深さもかなりあるのではと思えてきます。
中心部の活性化が問題となっていますが、ここまで行政も民間も文化的関心の高い地方都市もあまりないのではと改めて考えてしまいました。
というのも、最近、演劇ジャーナリストの米屋尚子氏の『演劇は仕事になるのか?』(彩流社)本を読んだからです。
劇団の経営や俳優・スタッフの経済的問題を論じた本だと思って購入したのですが、半分当たって半分は大外れでした。
特定の分野の演劇ではなく、もっと広い、文化政策全般の「アーツ・マネジメント」についての本でした。
第一印象は、記述が散漫で焦点が合いません。これも当たり前でして、演劇と言っても一言では言い表せないくらいのとてつもない多様な形式・形態があるからです。
学校の体育館を巡回する「劇団たんぽぽ」も、宝塚歌劇や劇団四季の大規模なミュージカルも、アングラのテント劇団も、小劇場演劇の第三世代も、能や狂言や歌舞伎など古典芸能も、梅沢富美男や早乙女太一などの大衆演劇も、吉本や松竹の新喜劇も、みんな演劇です。
アマチュア主催だって、高校や大学の演劇部が地元のホールを借りるのも、社会人が仕事終わりに稽古して友人たちを半分強引に誘って公演するのも、東京から劇団や演出家を招いたりワークショップを開くのも、みんな演劇の範疇に入ります。
定義がないから、演劇論などまとまるわけないのです。
それを何とかまとめようとの著者の苦心の跡が見て取れます。
同書は演劇論の本ではなく、「アーツ・マネジメント」についての本です。では「アーツマネジメント」とは何か。演劇のもろもろを串刺しにして、いろんな資源や法やノウハウなど「多様な価値観」を「ジャグリング」しながら演劇と文化を盛り上げよう(観るほうも、やるほうも)というものです。
同書で多く紙幅を割いているのが、劇場、特に公共施設についてです。
私なりのかなり乱暴な理解ですが、バブル期前後からハコモノ批判が起こってきました。各地に施設が出来たのはいいが、豪華さばかり競い合い、「多目的ホールは無目的ホール」などという揶揄が飛び交いました。
ところが、筆者によると、日本ではアマチュアの施設利用が多いのです。
著者によれば、日本には芸事を「たしなむ」文化があり、日頃から芸の上達に邁進し、その成果を発表する「おさらい会」に、公共ホールが用いられます。
それをイギリスの演劇雑誌の編集長に話すと不思議がられたそうです。イギリスでは舞台に上がるのはプロの芸能人だけで、そのプロにも厳格な基準があります。アマチュアが文化ホールに出るなんてことは考えられないのです。
じゃあ、地方の施設はアマチュアの使用に徹すればいいかというとそうではなく、やはりプロにも公演してもらいたいものです。でもアマチュア市民劇団とプロの劇団が同じ施設で同じ設備でやれるかというとそうでもありません。
さらに、地域に合わせた実情もあります。東京と静岡では求められるものが違いますし、静岡でも県庁所在地の静岡市と同じ政令市の浜松市と、その周辺の磐田市と、山間部など過疎地域ではまったく事情が異なります。
それゆえに、地域の劇場を核とした演劇・文化振興の法律「劇場法(仮称)」の必要性と、その地域の住民や演劇団体・組織の要求に応えて多くの人に表現を楽しんでもらうために尽力する、芸術監督+プロデューサー+役所の担当者+……のような役割「アーツ・マネジメント」について説かれます。
(上記の記述は私によるもので、実際はかなり広範囲にわたって書かれています。対象の演劇自体のジャンルが多いため、私自身も要約しにくい本です。詳しくは同書を読んでください。また、私もあまり詳しくないため誤解や誤記があると思います。その時はお手数ですがコメント欄などでご指摘くださると幸いです)
これはそれぞれの地域事情について考えてもらえばわかる話です。
私の地元の静岡県を例に取ると、市立の磐田市民文化会館やアミューズ豊田での劇団四季のミュージカルのロングランはもったいなさすぎますし、専門の芸術監督やプロの劇団を置くのも難しいでしょう。逆に静岡県の施設「グランシップ」の大ホール(最大4600人収容)で演劇好きが集まっただけの市民劇団が公演するにはコスト的にも内容的にも合いません。
そこをわきまえて、さらに劇団の性質や内容を理解して、金のことも頭に入れて、制度や人脈を駆使して、その地域の実情に最も適した文化発信を施設を拠点に行っていきます。
え?まだわからない?
やっぱりそうですか。私もわかったつもりですが、説明が難しいのですよ。
ですが、似たような役割は今後社会全体でもっと必要になるでしょう。
例えば福祉分野があります。社会的な制度に頼ることになったときに、障害者福祉・子ども福祉・高齢者福祉など窓口が分かれていて、どこに相談していいかわかりません。途方に暮れて、市役所のそれらしき窓口に行っても「その件はあっちです」と画に描いたようなお役所的対応をされます(経験者は語る)。
今では市役所の地域包括支援センターや病院や福祉施設などにソーシャルワーカーがおり、こちらがまったくわからなくとも相談に乗ってくれて、適切な措置をしてくれます。
もうひとつの例としては、法律関係者の「法テラス」というものがあります。あらゆる法律的な相談の窓口となり、弁護士や司法書士、消費生活センターなどを紹介してくれたり、費用を立て替えたりしてくれることもあります。
そういった、専門的知識を持ちながら、人や制度、法を俯瞰し「ジャグリング」する人材は、今後社会のあらゆる分野で需要が高まるでしょう。
芸術・文化からかなり逸れてしまいましたが(私の中では問題意識は一致していると考えています)、なんとなくわかるんだけど、対象が広すぎるだけに、もう少し整理された一般向けの関連文献はないものかな~、と思っています。多少雑でも教養新書なんかで。
やっぱり芸術は一見さんお断りなんでしょうか?それはさびしいです。
現実的に、芸術・文化はまだ知られていません。静岡市で行われる演劇は浜松や磐田で知られていませんし、東京の小劇場演劇の動向など地方都市にいたら関心などなくなります。もっと文化の価値を一般人に知らしめる必要があります。
それに、大阪市の橋下市長のような、経営感覚だけで芸術・文化の価値を計ろうとする人に対抗するためにも、普通の人にもわかる解説書や啓蒙する人が必要なんですよね。
私なりのかなり乱暴な理解ですが、バブル期前後からハコモノ批判が起こってきました。各地に施設が出来たのはいいが、豪華さばかり競い合い、「多目的ホールは無目的ホール」などという揶揄が飛び交いました。
ところが、筆者によると、日本ではアマチュアの施設利用が多いのです。
著者によれば、日本には芸事を「たしなむ」文化があり、日頃から芸の上達に邁進し、その成果を発表する「おさらい会」に、公共ホールが用いられます。
それをイギリスの演劇雑誌の編集長に話すと不思議がられたそうです。イギリスでは舞台に上がるのはプロの芸能人だけで、そのプロにも厳格な基準があります。アマチュアが文化ホールに出るなんてことは考えられないのです。
じゃあ、地方の施設はアマチュアの使用に徹すればいいかというとそうではなく、やはりプロにも公演してもらいたいものです。でもアマチュア市民劇団とプロの劇団が同じ施設で同じ設備でやれるかというとそうでもありません。
さらに、地域に合わせた実情もあります。東京と静岡では求められるものが違いますし、静岡でも県庁所在地の静岡市と同じ政令市の浜松市と、その周辺の磐田市と、山間部など過疎地域ではまったく事情が異なります。
それゆえに、地域の劇場を核とした演劇・文化振興の法律「劇場法(仮称)」の必要性と、その地域の住民や演劇団体・組織の要求に応えて多くの人に表現を楽しんでもらうために尽力する、芸術監督+プロデューサー+役所の担当者+……のような役割「アーツ・マネジメント」について説かれます。
(上記の記述は私によるもので、実際はかなり広範囲にわたって書かれています。対象の演劇自体のジャンルが多いため、私自身も要約しにくい本です。詳しくは同書を読んでください。また、私もあまり詳しくないため誤解や誤記があると思います。その時はお手数ですがコメント欄などでご指摘くださると幸いです)
これはそれぞれの地域事情について考えてもらえばわかる話です。
私の地元の静岡県を例に取ると、市立の磐田市民文化会館やアミューズ豊田での劇団四季のミュージカルのロングランはもったいなさすぎますし、専門の芸術監督やプロの劇団を置くのも難しいでしょう。逆に静岡県の施設「グランシップ」の大ホール(最大4600人収容)で演劇好きが集まっただけの市民劇団が公演するにはコスト的にも内容的にも合いません。
そこをわきまえて、さらに劇団の性質や内容を理解して、金のことも頭に入れて、制度や人脈を駆使して、その地域の実情に最も適した文化発信を施設を拠点に行っていきます。
え?まだわからない?
やっぱりそうですか。私もわかったつもりですが、説明が難しいのですよ。
ですが、似たような役割は今後社会全体でもっと必要になるでしょう。
例えば福祉分野があります。社会的な制度に頼ることになったときに、障害者福祉・子ども福祉・高齢者福祉など窓口が分かれていて、どこに相談していいかわかりません。途方に暮れて、市役所のそれらしき窓口に行っても「その件はあっちです」と画に描いたようなお役所的対応をされます(経験者は語る)。
今では市役所の地域包括支援センターや病院や福祉施設などにソーシャルワーカーがおり、こちらがまったくわからなくとも相談に乗ってくれて、適切な措置をしてくれます。
もうひとつの例としては、法律関係者の「法テラス」というものがあります。あらゆる法律的な相談の窓口となり、弁護士や司法書士、消費生活センターなどを紹介してくれたり、費用を立て替えたりしてくれることもあります。
そういった、専門的知識を持ちながら、人や制度、法を俯瞰し「ジャグリング」する人材は、今後社会のあらゆる分野で需要が高まるでしょう。
芸術・文化からかなり逸れてしまいましたが(私の中では問題意識は一致していると考えています)、なんとなくわかるんだけど、対象が広すぎるだけに、もう少し整理された一般向けの関連文献はないものかな~、と思っています。多少雑でも教養新書なんかで。
やっぱり芸術は一見さんお断りなんでしょうか?それはさびしいです。
現実的に、芸術・文化はまだ知られていません。静岡市で行われる演劇は浜松や磐田で知られていませんし、東京の小劇場演劇の動向など地方都市にいたら関心などなくなります。もっと文化の価値を一般人に知らしめる必要があります。
それに、大阪市の橋下市長のような、経営感覚だけで芸術・文化の価値を計ろうとする人に対抗するためにも、普通の人にもわかる解説書や啓蒙する人が必要なんですよね。