「先生」について

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 夏バテや夏風邪、PCの不調などでずーーーっとサボっていた本館更新がようやくできました。

 「芸能総研論説 「最後の授業」」(芸能問題総合研究所

 表向きは話題の故ランデイ・パウシュ教授の本の感想のようになっていますが、本当に言いたいことは、わかる人にはわかるでしょう。

 私はこれでも教育社会学を専攻し、学位を取得しました。ペーパードライバーならぬペーパー学士みたいなものですが、一応、研究の基礎は身に付けています。
 ですからこんな感情的なことは書きたくありません。ちゃんと多様な論点から論じることもできます。ですが、論文形式にするとたっぷり1年間はかかります。また今の私はそれだけの資料をそろえる環境にはありません。
 ですから見送りたかったのですが、それでも内側から湧き出る怒りが絶望に代わるまでになんとか形にしたかったのです。

 昨年から「先生」と呼ばれる人に幻滅することが非常に多くありました。
 「先生」という職業はありません。私はある種の称号のようなものだと考えています。ですから尊敬できない人は決して「先生」とは呼びません。
 その「先生」の権威や威信が、ボロボロと崩れてきたのです。
 「教師(だけに限らず「先生」と呼ばれる人)だって一人の人間だ」
 「教師(だけに……以下略)を聖職者扱いするな」
 「今の教師(略)は忙しすぎる」
 そう言いたい人は多くいるでしょう。ならばすぐに辞表を出して民間企業に転職すればいい。空いた椅子は順番待ちの列をなしている学生や非常勤の講師が喜んで埋めてくれます。民間ならば勤務時間以外は何をしようが自由です。職務上もある程度のあいまいさは許容されます。
 でも、「先生」はそうではない。法に触れなくとも好ましからざる行為を子どもに見られたら、どう説明するのか。「今は学校は終わったから、『先生』じゃないんだよ」とでも言うのでしょうか。
 「先生」は尊敬される存在です。それゆえ、普通の人よりも重い社会的責務「ノブレス・オブリュージ(高貴なる者の義務)」を負います。それをわかっていない人が多すぎます。

 「先生」と似た言葉で「先輩」というのがあります。
 そういえば、薬師寺に行ったとき、名物のユニークな説法をお坊さんが披露して参詣客を湧かせた後、年配の夫婦が「面白かったですよ」「よくあれだけしゃべれるものだねー」と褒めていました。
 その比較的若いお坊さんは、「いやあ、先輩方の前で話しますから、緊張しますね」と話していました。
 ああ、先輩のお坊さんから厳しいチェックがあるんだな、なんて思っていると、そのお坊さんは、
 「あ、先輩と言いましても、お寺の言葉で、年上の人のことなんです」
 とあわてて付け足しました。
 そばで聞いてた人たち一同、感心したものです。
 「先生」でも「先輩」でもいいですが、そのお坊さんくらいの謙虚さが必要でしょう。

 とはいっても、坊さんにも不快な目に遭ってるんですよね。ああ、やだ。


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この記事へのコメント
自分は人を不快にさせる僧侶にはなりたくない。いや、ならない。謙虚さを忘れずに、人の痛みや苦、悩みを我が事として受け止められる僧侶になりたい。
Posted by MASA-TATSUTA at 2008年08月23日 15:44
世の中には平気な顔で現世利益を説く葬式仏教の坊主が多いのだよ。
ウチの菩提寺の住職だから文句言えんかったのだけど。
俺が死んだら仏教に頼らず、ウェルダンで焼いてから天竜川に散骨してくれと遺言に書こうと決めてます。
Posted by 大橋輝久大橋輝久 at 2008年08月23日 20:53
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    コメント(2)