2012年03月11日01:57
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東日本大震災から1年。結局東北には行けなかったな・・・。
ボランティアでも、仕事でも、旅行でも、なんでもいいから絶対に行きたいと思っていたのですが。
せっかくこの世に生を受けたからには人様の役に立ちたいと思うのは人情ですし、阪神大震災の時に何もできなかった無念をいつか晴らそうと常々思っていただけに。
当地・静岡に戻ってきてからは特に、、不測の事態がいつあってもおかしくないと、一応の準備らしきものはしてきました。
1年前に揺れを感じてテレビを付けたときには「ついに来た!」と体中がこわばりました。まず震源地や震度、マグニチュードなど基本情報を過去の災害の規模を比較、わが家のライフラインの確認、ネットやラジオ、テレビで被災地の被害情報を把握、友人間でメールやソーシャルサイトを駆使して情報を共有して東北在住の友人の無事がわかり、関東地方で電車が止まり徒歩で横浜から横須賀まで歩いて帰ってきた親戚にお見舞いの電話を入れました。
翌朝まだ暗く寒い中に職場まで自転車で走り、人員や物流に影響がないことがわかるとコンビニで買った中日新聞を読み(中日は浜松で印刷されているので、同じ通信社の記事でも静岡新聞より情報が早い)、即席の募金箱を設置しました。
テレビの映像を観て、パニックになる人、躁状態だった人、1週間ほど全く記憶がない人など、当地でもいろいろな回想を聞きました。その中では、自分で言うのもなんですが、冷静すぎるくらい冷静に行動できました。
それでも、無力感はいまなおあります。
日本は現在も戦時下にあると考えていますが、戦争には最前線で戦う兵士だけでなく、司令部も兵站も、「銃後の母」も必要です。
後方支援も大事だと開き直っていましたが、職場に配られた広報誌で同じ作業服を身にまとった人ががれきやヘドロの中で仕事している写真を見つけると、微々たる額の募金を送ることしかできない私はこんなところで何をしているのだろうと自分を責めるような気になりました。
そんなこと考えていてもしょうがないとわかっていながらも、です。
不幸中の幸い――決して「幸い」などと言えないのですが――は、特に若い世代が、人の役に立ちたいと、次々に立ち上がったことです。
被災地では多くの人がボランティアに駆け付け、被災者自身も、高校生も、中学生も、果ては小学生まで、自分のできることを見つけて自発的に(本来の意味の「ボランティアvolunteer」)活動をしました。
将来は自衛官や警察官や医師や保育士になりたいという若者の声も報道でよく耳にしました。
昨年末の拙稿(「1億2000万人のタイガーマスク」)でも書きましたが、日本はいい方に変わりつつあると感じています。
好きな言葉ではないのですが、震災前から唱えられている「新しい公共」が意図せずに形を見せたのかもしれません。社会学者の鈴木謙介氏のいう「SQ(Social Quatient=社会と関わる力)」が涵養されている、と言えるのかもしれません。
この行動は、間違いなく、阪神・淡路大震災の犠牲者6434名の尊い命があってのものです。
大きすぎる犠牲と、当時の政権の稚拙な対応があったから、今回は自衛隊や警察、消防の初動は速やかでした(菅前総理を擁護するつもりはないが、原発事故は誰がリーダーでも上手く対応できなかっただろう)。NGOやNPOも洗練された活動ができました。
一般の人たちも、学校や職場や趣味の会などそれぞれの場所で募金を呼び掛けたり、できる範囲で被災地や避難所の仕事を手伝ったりしました。
何度も書いているように、静岡県でも震災がれきを受け入れる自治体がありました。前向きに検討している自治体の市町長も何人もいます。うちの自治会でも市の方針について意見を聞かれ、自治会長やボランティアに行った人たちが積極的な賛同を呼びかけていました。
東日本大震災の死者が1万5854名(3月10日現在)。あまりにも甚大な被害でした。
生き残った私たちが2時46分のサイレンとともに黙祷を捧げたあとにまずすべきことは、悲しみを乗り越え、前に進むことです。
日本は災害大国です。自然災害から絶対に逃れることはできません。
それは1年後かもしれないし、5年後かもしれないし、10年後かもしれない。もしかしたら、1時間後かもしれない。1分後かもしれない。
そのときに、今回の教訓を生かしてどれだけ犠牲を少なくできるか。それが1万6000人の失われた命に報いることです。
震災から1年をめどに、毎月11日に行っていた義援金送付を、今日で一旦終了します。私の財布が炉心溶融しそうなので。
支援そのものは継続的に行おうと今模索しているところです。
とりあえず、買ってきました。
外れても東北復興のささやかな一助になるし、当たったら全部寄付します。
私事ですが、秋ぐらいには仕事で空きができるかもしれません。
遅くなりますが、「奥の細道」に出られるかもしれません。
それまでに、東北が少しでも美しく甦りますように。
とりあえずこれからはもっと強くなります。なるべく泣かないように。
ボランティアでも、仕事でも、旅行でも、なんでもいいから絶対に行きたいと思っていたのですが。
せっかくこの世に生を受けたからには人様の役に立ちたいと思うのは人情ですし、阪神大震災の時に何もできなかった無念をいつか晴らそうと常々思っていただけに。
当地・静岡に戻ってきてからは特に、、不測の事態がいつあってもおかしくないと、一応の準備らしきものはしてきました。
1年前に揺れを感じてテレビを付けたときには「ついに来た!」と体中がこわばりました。まず震源地や震度、マグニチュードなど基本情報を過去の災害の規模を比較、わが家のライフラインの確認、ネットやラジオ、テレビで被災地の被害情報を把握、友人間でメールやソーシャルサイトを駆使して情報を共有して東北在住の友人の無事がわかり、関東地方で電車が止まり徒歩で横浜から横須賀まで歩いて帰ってきた親戚にお見舞いの電話を入れました。
翌朝まだ暗く寒い中に職場まで自転車で走り、人員や物流に影響がないことがわかるとコンビニで買った中日新聞を読み(中日は浜松で印刷されているので、同じ通信社の記事でも静岡新聞より情報が早い)、即席の募金箱を設置しました。
テレビの映像を観て、パニックになる人、躁状態だった人、1週間ほど全く記憶がない人など、当地でもいろいろな回想を聞きました。その中では、自分で言うのもなんですが、冷静すぎるくらい冷静に行動できました。
それでも、無力感はいまなおあります。
日本は現在も戦時下にあると考えていますが、戦争には最前線で戦う兵士だけでなく、司令部も兵站も、「銃後の母」も必要です。
後方支援も大事だと開き直っていましたが、職場に配られた広報誌で同じ作業服を身にまとった人ががれきやヘドロの中で仕事している写真を見つけると、微々たる額の募金を送ることしかできない私はこんなところで何をしているのだろうと自分を責めるような気になりました。
そんなこと考えていてもしょうがないとわかっていながらも、です。
不幸中の幸い――決して「幸い」などと言えないのですが――は、特に若い世代が、人の役に立ちたいと、次々に立ち上がったことです。
被災地では多くの人がボランティアに駆け付け、被災者自身も、高校生も、中学生も、果ては小学生まで、自分のできることを見つけて自発的に(本来の意味の「ボランティアvolunteer」)活動をしました。
将来は自衛官や警察官や医師や保育士になりたいという若者の声も報道でよく耳にしました。
昨年末の拙稿(「1億2000万人のタイガーマスク」)でも書きましたが、日本はいい方に変わりつつあると感じています。
好きな言葉ではないのですが、震災前から唱えられている「新しい公共」が意図せずに形を見せたのかもしれません。社会学者の鈴木謙介氏のいう「SQ(Social Quatient=社会と関わる力)」が涵養されている、と言えるのかもしれません。
この行動は、間違いなく、阪神・淡路大震災の犠牲者6434名の尊い命があってのものです。
大きすぎる犠牲と、当時の政権の稚拙な対応があったから、今回は自衛隊や警察、消防の初動は速やかでした(菅前総理を擁護するつもりはないが、原発事故は誰がリーダーでも上手く対応できなかっただろう)。NGOやNPOも洗練された活動ができました。
一般の人たちも、学校や職場や趣味の会などそれぞれの場所で募金を呼び掛けたり、できる範囲で被災地や避難所の仕事を手伝ったりしました。
何度も書いているように、静岡県でも震災がれきを受け入れる自治体がありました。前向きに検討している自治体の市町長も何人もいます。うちの自治会でも市の方針について意見を聞かれ、自治会長やボランティアに行った人たちが積極的な賛同を呼びかけていました。
東日本大震災の死者が1万5854名(3月10日現在)。あまりにも甚大な被害でした。
生き残った私たちが2時46分のサイレンとともに黙祷を捧げたあとにまずすべきことは、悲しみを乗り越え、前に進むことです。
日本は災害大国です。自然災害から絶対に逃れることはできません。
それは1年後かもしれないし、5年後かもしれないし、10年後かもしれない。もしかしたら、1時間後かもしれない。1分後かもしれない。
そのときに、今回の教訓を生かしてどれだけ犠牲を少なくできるか。それが1万6000人の失われた命に報いることです。
震災から1年をめどに、毎月11日に行っていた義援金送付を、今日で一旦終了します。私の財布が炉心溶融しそうなので。
支援そのものは継続的に行おうと今模索しているところです。
とりあえず、買ってきました。
外れても東北復興のささやかな一助になるし、当たったら全部寄付します。
私事ですが、秋ぐらいには仕事で空きができるかもしれません。
遅くなりますが、「奥の細道」に出られるかもしれません。
それまでに、東北が少しでも美しく甦りますように。
とりあえずこれからはもっと強くなります。なるべく泣かないように。