2009年07月29日13:33
かつて、ソ連という国があった≫
カテゴリー │音楽
……ということをいちいち説明しなくてはいけない世代がそろそろ第一線で活躍する頃なんですね。
ソ連はアメリカと世界を二分していた超大国で、日本とは仲が悪い国でした。世界地図ではいちばんでっかく描かれていたのに、まったく実情がわからない、ミステリアスで怖い印象の国でした。
今で言えば、北朝鮮のような国でしょうか。
怖いもの見たさの私は、いつかこの国に行きたいと思っていました。政治的なことなどまったくわからなかったのに、広大な大地をモスクワへ向かってシベリア鉄道で疾走する姿を夢想していました。『青年は荒野をめざす』なんて本も知らなかった、中学生の頃でした。
そのあたりから、私のソ連へのイメージはだんだんと変わってきました。
理由のひとつは、ゴルバチョフという指導者が出てきたからです。禿頭に特徴的な額のあざという容貌が、「ペレストロイカ」「グラスノスチ」などという言葉とともに、ニュース番組でよく見られました。
もうひとつは、日本人とロシア人のハーフという女性歌手がしゃべっていたラジオ番組を聞いていたことです。二つの国籍を持つその女性は、勢いのよいしゃべりと若さの塊のような歌で、真夜中の番組というのに、隠れたファンを発掘していきました。
川村かおり(カオリ)という人でした。
ソ連はアメリカと世界を二分していた超大国で、日本とは仲が悪い国でした。世界地図ではいちばんでっかく描かれていたのに、まったく実情がわからない、ミステリアスで怖い印象の国でした。
今で言えば、北朝鮮のような国でしょうか。
怖いもの見たさの私は、いつかこの国に行きたいと思っていました。政治的なことなどまったくわからなかったのに、広大な大地をモスクワへ向かってシベリア鉄道で疾走する姿を夢想していました。『青年は荒野をめざす』なんて本も知らなかった、中学生の頃でした。
そのあたりから、私のソ連へのイメージはだんだんと変わってきました。
理由のひとつは、ゴルバチョフという指導者が出てきたからです。禿頭に特徴的な額のあざという容貌が、「ペレストロイカ」「グラスノスチ」などという言葉とともに、ニュース番組でよく見られました。
もうひとつは、日本人とロシア人のハーフという女性歌手がしゃべっていたラジオ番組を聞いていたことです。二つの国籍を持つその女性は、勢いのよいしゃべりと若さの塊のような歌で、真夜中の番組というのに、隠れたファンを発掘していきました。
川村かおり(カオリ)という人でした。
まったく知らない人でしたが、しゃべりに惹かれていって、土曜日の真夜中なので、たっぷりと夜更かしをして聞いていました(まあ私の場合、毎日でしたけど)。
ハーフという彼女の出自を生かして、ソ連のことがよく話題になりました。「ゴルビーに会いたい」なんていう目玉コーナーがあって、ゴルバチョフに番組に出てくれとラブコールを贈る一方で、よくソ連の文化が話題になりました。ロシア民謡「一週間」の「♪トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャ~」ってなんですか?なんてリスナーからの手紙に答えたりしていました。ちなみに「♪トゥリャトゥリャトゥリャ~」は合いの手やリズムのようなもので、日本の民謡でいう「ハイーッ、ハイ」とか「チョイナチョイナ」みたいなものだと言っていました。正確なところは忘れましたが。
とにかく活きがいいしゃべりでした。似たような企画を桂三枝がテレビでやっていたことに怒り、その番組から出演依頼が来たら、「オマエが先に来い!」と威勢のいい啖呵を切って笑いました。
その元気さと行動力で、狸穴にあったソ連大使館で大使館員と番組企画でバレーボールをやったなんていうのもありました。
彼女はECHOESの「ZOO」でデビューしましたが、ラジオを聞いていたときによく流れていたのは「メリーゴーランド」という曲で、私にとっての彼女の代表作です。この曲の正式タイトルは「メリーゴーランドに乗ってる君のことが好きだよ」という長いもので、自分のCDジャケットにも略称で載せられたと怒っていました。
その後、「やまだかつてないテレビ」というテレビ番組で「神様が降りてくる夜」という曲が使われ、腐るほど流れました。私と同じ世代の普通の人は、こちらのほうが馴染みが深いでしょう。
私はこの番組が嫌いだったのであまり観なかったのですが、毎回この曲に合わせて視聴者がダンスをするというものだったような気がします。あまりにも繰り返し使用され、やがて視聴者に飽きられることがわかっていたので、川村かおりが安売りされるようで、すごく嫌だったのを覚えています。
もっとも、当時の「オールナイトニッポン(2部)」は、テレビなどで本格的に売り出す前の顔見世の意味合いが強かったのですが、それでもラジオというメディアは不思議なもので、今にして思えばどんなに宣伝くさくても、「俺のパーソナリティ」と思わせるところがあります。まだ「リスナーの兄貴分」(彼女の場合は「姉貴分」とか「姐さん」か)という言葉が生きていた頃の話です。
ネットで調べたら、彼女のラジオは1991年5月で終了したとありました。なぜか私は最終回は聞いた記憶はありません。たぶん、眠ってしまったのでしょう。
その年の8月、ソ連でクーデターがありました。やがてソ連崩壊につながる大事態でした。ゴルバチョフが共産党守旧派幹部により軟禁状態に置かれ、連絡が取れなくなりました。どこにいるのか、生きているのか殺されたのかすらわからない状況で、日本でもニュース番組はそのことばかりでした。
専門家たちがテレビに出て解説していましたが、私が一刻も早く聞きたかったのは、川村かおりの声でした。後で知ったのですが、ニッポン放送は通常放送を飛ばして特番を組み、そこに川村かおりが出演したそうです。「ゴルビーが~。ゴルビーが~」とずっと泣いていたと噂で聞きました。
彼女が闘病中だということは知っていました。忌野清志郎のときと違って、正直、長くないだろうと思っていました。医学はまったくわかりませんが、主に彼女のブログを紹介するニュースから、なんとなくそんな気がしました。
病気を公表してから、彼女はいろいろなメディアに登場しました。ライブやラジオもあったようです。私は接するのを意図的に避けていました。本人や周囲のことをあえて理解せずに言うと、あのチャキチャキのしゃべりを知っている私としては、病気を売り物にする姿は見たくありませんでした。
それ以上に、彼女の病を金儲けのネタにする「ギョーカイ人」を軽蔑していました。これを偽善と言わずして、何が偽善か。偽善じゃない?だったら闘病以前の彼女にもっと注目するべきではなかったのか。こいつらには怒りを向けることすら損です。
今年に入って、私の青春の思い出が何人も鬼籍に入りました。神も仏も一切信じない私ですが、こういうときには余計にその思いを強くします。
もう追悼や哀惜の文章なんて書きたくない。こんなのはもういやだ。でも、これからも続くだろう。そんな覚悟というか諦念というか、そんなものを感じたのでした。
彼女のラジオが好きでした。パワフルで誰も寄せ付けないニューアレンジの「翼をください」が好きでした。
ハーフという彼女の出自を生かして、ソ連のことがよく話題になりました。「ゴルビーに会いたい」なんていう目玉コーナーがあって、ゴルバチョフに番組に出てくれとラブコールを贈る一方で、よくソ連の文化が話題になりました。ロシア民謡「一週間」の「♪トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャ~」ってなんですか?なんてリスナーからの手紙に答えたりしていました。ちなみに「♪トゥリャトゥリャトゥリャ~」は合いの手やリズムのようなもので、日本の民謡でいう「ハイーッ、ハイ」とか「チョイナチョイナ」みたいなものだと言っていました。正確なところは忘れましたが。
とにかく活きがいいしゃべりでした。似たような企画を桂三枝がテレビでやっていたことに怒り、その番組から出演依頼が来たら、「オマエが先に来い!」と威勢のいい啖呵を切って笑いました。
その元気さと行動力で、狸穴にあったソ連大使館で大使館員と番組企画でバレーボールをやったなんていうのもありました。
彼女はECHOESの「ZOO」でデビューしましたが、ラジオを聞いていたときによく流れていたのは「メリーゴーランド」という曲で、私にとっての彼女の代表作です。この曲の正式タイトルは「メリーゴーランドに乗ってる君のことが好きだよ」という長いもので、自分のCDジャケットにも略称で載せられたと怒っていました。
その後、「やまだかつてないテレビ」というテレビ番組で「神様が降りてくる夜」という曲が使われ、腐るほど流れました。私と同じ世代の普通の人は、こちらのほうが馴染みが深いでしょう。
私はこの番組が嫌いだったのであまり観なかったのですが、毎回この曲に合わせて視聴者がダンスをするというものだったような気がします。あまりにも繰り返し使用され、やがて視聴者に飽きられることがわかっていたので、川村かおりが安売りされるようで、すごく嫌だったのを覚えています。
もっとも、当時の「オールナイトニッポン(2部)」は、テレビなどで本格的に売り出す前の顔見世の意味合いが強かったのですが、それでもラジオというメディアは不思議なもので、今にして思えばどんなに宣伝くさくても、「俺のパーソナリティ」と思わせるところがあります。まだ「リスナーの兄貴分」(彼女の場合は「姉貴分」とか「姐さん」か)という言葉が生きていた頃の話です。
ネットで調べたら、彼女のラジオは1991年5月で終了したとありました。なぜか私は最終回は聞いた記憶はありません。たぶん、眠ってしまったのでしょう。
その年の8月、ソ連でクーデターがありました。やがてソ連崩壊につながる大事態でした。ゴルバチョフが共産党守旧派幹部により軟禁状態に置かれ、連絡が取れなくなりました。どこにいるのか、生きているのか殺されたのかすらわからない状況で、日本でもニュース番組はそのことばかりでした。
専門家たちがテレビに出て解説していましたが、私が一刻も早く聞きたかったのは、川村かおりの声でした。後で知ったのですが、ニッポン放送は通常放送を飛ばして特番を組み、そこに川村かおりが出演したそうです。「ゴルビーが~。ゴルビーが~」とずっと泣いていたと噂で聞きました。
彼女が闘病中だということは知っていました。忌野清志郎のときと違って、正直、長くないだろうと思っていました。医学はまったくわかりませんが、主に彼女のブログを紹介するニュースから、なんとなくそんな気がしました。
病気を公表してから、彼女はいろいろなメディアに登場しました。ライブやラジオもあったようです。私は接するのを意図的に避けていました。本人や周囲のことをあえて理解せずに言うと、あのチャキチャキのしゃべりを知っている私としては、病気を売り物にする姿は見たくありませんでした。
それ以上に、彼女の病を金儲けのネタにする「ギョーカイ人」を軽蔑していました。これを偽善と言わずして、何が偽善か。偽善じゃない?だったら闘病以前の彼女にもっと注目するべきではなかったのか。こいつらには怒りを向けることすら損です。
今年に入って、私の青春の思い出が何人も鬼籍に入りました。神も仏も一切信じない私ですが、こういうときには余計にその思いを強くします。
もう追悼や哀惜の文章なんて書きたくない。こんなのはもういやだ。でも、これからも続くだろう。そんな覚悟というか諦念というか、そんなものを感じたのでした。
彼女のラジオが好きでした。パワフルで誰も寄せ付けないニューアレンジの「翼をください」が好きでした。
この記事へのコメント
高校生の頃3時に目覚ましかけてオールナイト聞いてました。ヤーヤーヤー川村カオリですーと威勢の良いオープニングと夜明けと共に聞いた金色のライオンが忘れられません。悲しいです
Posted by 豊南 at 2009年07月30日 01:30
豊南さんこんにちは。やっぱりいろいろなところにいるんですね、川村かおりANNリスナー。どう考えても早すぎます。マスコミもお涙頂戴の報道だけでなく、歌手やラジオパーソナリティの面も伝えてほしいと思います。
Posted by 大橋輝久 at 2009年07月30日 04:11