2007年11月07日14:41

で、小学生に倣って、街のユニバーサルデザインを探してみました。
駅のホームにあったのがこの自動販売機。低い位置に商品選択ボタンがあります。これなら高い位置にある商品が欲しくても、車椅子の人や子どもでも簡単にボタンを押せます。こういう、誰にでも優しいものがもっとできてくれたらいいんですがね。
駅にいた小学生がどんなユニバーサルデザインを探したのか興味がありますが、実はこれが本題ではありません。
最近、こんなニュースがありました。
「中教審 学力低下を反省、小中学生の学力を強化」(「読売新聞」10月31日付)
今日取り上げた「ユニバーサルデザイン探し」は「総合学習の時間」で行われたと思われます。たかだか小学生にしてここまでハイレベルな内容をすることに驚いています。私が知る総合学習の他の事例として、郷土の名産や歴史を調べることをしている学校もあります。ネットを渉猟するだけでいろいろな学校が様々な取り組みをしていることがわかります。
「ゆとり教育」によって学力が低下したとか、階層格差が拡大するとか、いろんな批判があります。私も現在中学校で使用されている教科書を読んで、あまりの内容の薄さに愕然とした記憶があります。
ただ、読み・書き・そろばんに代表される基礎科目は比較的早期に調査結果が出ますが、いわゆる総合学習は、そう簡単に成果が出ません。十年先か、二十年先か、それとも何の役にも立たないままか。それがわかるのは、かなり先のことです。総合学習は失敗だったと結論付けるのはまだ早計です。
また、現場の教師の苦労も並大抵ではありません。これもネットで調べて見つけたのですが、ある県の教職員へのアンケートでは、総合学習の時間の削減を望んでいる人が多いとのことです。現場の教師の苦労は私の耳にもよく入ってくるのでわかります。
ただ、なんだかんだ言っても、今の浜松の小学校の教育水準は、ユニバーサルデザインとは何かを子どもに教えるという高水準にあります。まず教師自身が学び、教え方を考え、同僚と打ち合わせ関係各所への調整をし、子どもたちの興味を引かせなくてはなりません。その負担の軽減は当然考えなくてはなりませんが、ここまで教師自身が磨かれ高い水準を保持してきた教育力をみすみす捨てるのはもったいない話です。
有識者らの「ゆとり教育」反対の大合唱に付和雷同するのは簡単です。でも、ちょっと待てよ、と思うのです。今は私が小学校へ通っていた20年以上前よりも教科書はかなり薄くなっています。でも、街で、あるいは施設や工場や田畑や商店へ行って学ぶ機会など、私の頃には年一回だけでした。それに比べれば、今の子どもたちは恵まれているとも思えます。
そんなことを朝の子どもたちの姿から思いました。子どもがいなくて教育現場も直接は知らない身としては無責任なことも言えませんが、ユニバーサルデザインのことを知ってる小学生なんてたいしたもんじゃねえか、と、「ゆとり教育」を評価したくもなるのです。
ユニバーサルデザインを学ぶ小学生≫
カテゴリー │社会
今朝、浜松駅に行くと、小学生のグループが大勢いました。課外学習のようで、ひとりはデジタルビデオカメラを首からかけていました。手に持ったボードを覗き込むと「街でユニバーサルデザインを見つけよう」と書いてありました。
これって、すごいね。
なにがって、「ユニバーサルデザイン」とは何かをちゃんと理解しているところが。
そして、10歳かそこらの子どもにも教えられる先生が。
だって、わかりますか、「バリアフリー」と「ユニバーサルデザイン」の違いって?
簡単に言えば、「バリアフリー」は障害者(handicapped:「障がい者」challengedなんて言い方もする)の社会参加の妨げになるもの(物理的な障害・obstacle,barrier)を除去する政策や施策のことで、もっと対象者を広げて障害者だけでなくどんな人でも利用できるようにしようというのが「アクセシビリティ」、そのためのデザインのことを「ユニバーサルデザイン」です。
すなわち「バリアフリー」⊂「ユニバーサルデザイン」のようなものです、たぶん(私も福祉分野についてはよくわからないので)。
バリアフリーは街でも一般的になりました。視覚障害者のための点字ブロックとか、音楽が流れる信号とか、車椅子の人でも使える広くて手すり付きのトイレとか。ほかにもたくさんあります。
ところが身体障害者向け以外のユニバーサルデザインとなると、これがなかなか難しい。なにせ、どんな人にも優しいデザインですから。
たとえば、外国人。たびたび触れていますが、英語の案内表記はたくさんあります。でも、その他の言語はまだ不十分です。大都市圏には日・英・韓・中の四カ国語表記の看板がありますが、浜松では見かけません。また、浜松に多く居住するブラジル人向けのポルトガル語表記はまだまだ少ないです。
他には、高齢者、または子ども。ノンステップバスなどは普及していますが、エレベーターを設置している駅はまだ少数です。
それからあまり指摘する人は多くありませんが、女性向けの施設や設備もまだまだ少数です。映画館や劇場で女性用トイレに長蛇の列ができることがあります。東京のある高級な劇場では一階には男性用と女性用のトイレがありましたが、二階には女性用しかありませんでした。そのくらいの配慮も必要でしょう。
さらには「交通弱者」。私のような車を運転できない人は商業圏が郊外に発展して公共交通網が不十分な地方都市ではかなり辛いです。
徐々にではありますが、そういった障害者以外の人を対象としたユニバーサルデザインも街で増えつつあります。浜松では地下道や市役所でポルトガル語表記の案内もよく見かけます(こちらを参照)。地元銀行のATMではポルトガル語の表示も出ますし。
これって、すごいね。
なにがって、「ユニバーサルデザイン」とは何かをちゃんと理解しているところが。
そして、10歳かそこらの子どもにも教えられる先生が。
だって、わかりますか、「バリアフリー」と「ユニバーサルデザイン」の違いって?
簡単に言えば、「バリアフリー」は障害者(handicapped:「障がい者」challengedなんて言い方もする)の社会参加の妨げになるもの(物理的な障害・obstacle,barrier)を除去する政策や施策のことで、もっと対象者を広げて障害者だけでなくどんな人でも利用できるようにしようというのが「アクセシビリティ」、そのためのデザインのことを「ユニバーサルデザイン」です。
すなわち「バリアフリー」⊂「ユニバーサルデザイン」のようなものです、たぶん(私も福祉分野についてはよくわからないので)。
バリアフリーは街でも一般的になりました。視覚障害者のための点字ブロックとか、音楽が流れる信号とか、車椅子の人でも使える広くて手すり付きのトイレとか。ほかにもたくさんあります。
ところが身体障害者向け以外のユニバーサルデザインとなると、これがなかなか難しい。なにせ、どんな人にも優しいデザインですから。
たとえば、外国人。たびたび触れていますが、英語の案内表記はたくさんあります。でも、その他の言語はまだ不十分です。大都市圏には日・英・韓・中の四カ国語表記の看板がありますが、浜松では見かけません。また、浜松に多く居住するブラジル人向けのポルトガル語表記はまだまだ少ないです。
他には、高齢者、または子ども。ノンステップバスなどは普及していますが、エレベーターを設置している駅はまだ少数です。
それからあまり指摘する人は多くありませんが、女性向けの施設や設備もまだまだ少数です。映画館や劇場で女性用トイレに長蛇の列ができることがあります。東京のある高級な劇場では一階には男性用と女性用のトイレがありましたが、二階には女性用しかありませんでした。そのくらいの配慮も必要でしょう。
さらには「交通弱者」。私のような車を運転できない人は商業圏が郊外に発展して公共交通網が不十分な地方都市ではかなり辛いです。
徐々にではありますが、そういった障害者以外の人を対象としたユニバーサルデザインも街で増えつつあります。浜松では地下道や市役所でポルトガル語表記の案内もよく見かけます(こちらを参照)。地元銀行のATMではポルトガル語の表示も出ますし。


駅のホームにあったのがこの自動販売機。低い位置に商品選択ボタンがあります。これなら高い位置にある商品が欲しくても、車椅子の人や子どもでも簡単にボタンを押せます。こういう、誰にでも優しいものがもっとできてくれたらいいんですがね。
駅にいた小学生がどんなユニバーサルデザインを探したのか興味がありますが、実はこれが本題ではありません。
最近、こんなニュースがありました。
「中教審 学力低下を反省、小中学生の学力を強化」(「読売新聞」10月31日付)
今日取り上げた「ユニバーサルデザイン探し」は「総合学習の時間」で行われたと思われます。たかだか小学生にしてここまでハイレベルな内容をすることに驚いています。私が知る総合学習の他の事例として、郷土の名産や歴史を調べることをしている学校もあります。ネットを渉猟するだけでいろいろな学校が様々な取り組みをしていることがわかります。
「ゆとり教育」によって学力が低下したとか、階層格差が拡大するとか、いろんな批判があります。私も現在中学校で使用されている教科書を読んで、あまりの内容の薄さに愕然とした記憶があります。
ただ、読み・書き・そろばんに代表される基礎科目は比較的早期に調査結果が出ますが、いわゆる総合学習は、そう簡単に成果が出ません。十年先か、二十年先か、それとも何の役にも立たないままか。それがわかるのは、かなり先のことです。総合学習は失敗だったと結論付けるのはまだ早計です。
また、現場の教師の苦労も並大抵ではありません。これもネットで調べて見つけたのですが、ある県の教職員へのアンケートでは、総合学習の時間の削減を望んでいる人が多いとのことです。現場の教師の苦労は私の耳にもよく入ってくるのでわかります。
ただ、なんだかんだ言っても、今の浜松の小学校の教育水準は、ユニバーサルデザインとは何かを子どもに教えるという高水準にあります。まず教師自身が学び、教え方を考え、同僚と打ち合わせ関係各所への調整をし、子どもたちの興味を引かせなくてはなりません。その負担の軽減は当然考えなくてはなりませんが、ここまで教師自身が磨かれ高い水準を保持してきた教育力をみすみす捨てるのはもったいない話です。
有識者らの「ゆとり教育」反対の大合唱に付和雷同するのは簡単です。でも、ちょっと待てよ、と思うのです。今は私が小学校へ通っていた20年以上前よりも教科書はかなり薄くなっています。でも、街で、あるいは施設や工場や田畑や商店へ行って学ぶ機会など、私の頃には年一回だけでした。それに比べれば、今の子どもたちは恵まれているとも思えます。
そんなことを朝の子どもたちの姿から思いました。子どもがいなくて教育現場も直接は知らない身としては無責任なことも言えませんが、ユニバーサルデザインのことを知ってる小学生なんてたいしたもんじゃねえか、と、「ゆとり教育」を評価したくもなるのです。