実名/匿名報道問題は難しい・上

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 1994年、小さな新聞社を営む男性が自ら命を絶ちました。新聞社といっても朝毎読とは比較にならない小規模の週刊地域紙で、東京・西多摩地区のみで発行されていただけの、ミニコミ紙といったほうがいいものです。印刷も男性が経営する工場でされていました。地域住民に役立つ情報が掲載される新聞を発行していた平凡な一市民の息子の名前は、「宮崎勤」といいました。

 そんな人知らないという人も多いでしょうし、知っていてもあまりピンとこない若い人たちも増えたでしょう。1989年に幼女4人を殺害して日本中が大騒ぎとなった事件です。犯人である宮崎の趣味・嗜好も詳細に報じられ、魔女狩りのような「オタクバッシング」がありました。

 アルジェリアで日本企業の従業員が人質となった事件は、痛ましい結末を迎えました。感情を押し殺した社長の会見は、被害者や企業と直接関係ない視聴者にも言葉にできない感情を呼び起こしました。そして、事件の本筋とは関係のない騒動もありました。企業や政府が、被害者の氏名を公表するかしないかで報道陣とかなりもめたということです。

 実名/匿名報道のことを考えるときにいつも私が考えることは、「宮崎勤」という名前がもし報道されなかったら、何の罪もない父親は、自殺にまで追い込まれることはなかっただろうということです。

 人の口に戸は立てられません。噂はウイルスのように広がります。報道の如何に関わらず、家族や親族は縁談が破談になり、職を失うことになったかもしれません。でも、マスコミが寄ってたかって取材合戦をして家族が報道被害に遭うことがなかったら、いくらなんでも命まで失うことはなかったでしょう。

 実名/匿名報道の問題は本当に難しいものです。少し前に取り上げた横山秀夫の小説『64』(ロクヨン/文藝春秋)は、まさにこの問題で主人公の県警広報官と記者がやり合います。「加害者の実名を出せ」「いや出せない」……。延々とこの描写が続きます。報道側の言い分は、権力(ここでは警察)がやましいことがないか監視するのが我々の義務で、読者・視聴者は知る権利があるというもので、対して広報官は、被害者の名前が公表されると精神的に不安定な状況にある、というものです。クラブ詰めの記者は隠蔽する別の事情があるのかと詰め寄り、警察は報道被害のひどさを理由に拒絶します。記者と広報官の対立は先鋭化していきます。

 マスコミ側の言い分もわかります。アルジェリアの事件では、企業や政府が公表しなかった氏名の中に、元副社長のものがありました。亡くなった方や遺族には申し訳ありませんが、明らかにできなかった特別の理由があったのかと勘繰りたくもなります。

 権力(ここでは政府や企業や役所や警察など一般的組織)は情報をコントロールするものです。ウソは言わないまでも、余計なことは聞かれるまで答えませんし、嘘でない程度に誇張・縮小して発表することもあります(小さな組織ですが私も仕事でよくやります)。それが組織防衛なのです。そのときに、「人権」や「遺族感情」は格好の方便になります。

 ですから権力の監視役としての報道が必要です。そして、その報道が被取材者に対して何をしているのかを受け手は知っているから、政府や企業に対して氏名公表の要求をした報道各社を鋭く非難する言説がネットにあふれたのです。

 組織、特に官庁や警察は国民の知る権利に応えて情報を全面開示するべきで、報道するかどうかはメディア内部の良識に基づく判断にゆだねる、というのが理想なのですが、そんな理想は空想でしかありません。

 この問題、もう一回やります。上で紹介した横山秀夫の『64』は絶好の参考書ですので、この問題に関心がある方は是非読んでみてください。



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