コロナ禍で、入院患者の立ち入れる場所が狭められて、共用スペースもダメ、外来患者との接触がある売店なども制限がかかりました。
戒厳令を連想させる息の詰まりそうな中、私の定位置は、天窓から光が差す廊下のソファです。
治療や検査以外のときは、そこでお茶を飲んだり読書をして「純喫茶オオハシ」と呼んでいます。
喫茶店、学生時代によく行ってたなぁ。友人がいる店を避けて、知り合いがいない最寄り駅近くの店に入って。
ママさんとお手伝いの女性が切り盛りする店で、頼むのはホットかレイコー(大阪ではアイスコーヒーをこう呼ぶ)。紫煙を燻らせ「週刊朝日」や「文藝春秋」など当時でも大学生と縁のない雑誌を鞄から取り出してめくる。
そのうち注文がくる。「ありがとう」の一言だけで、そのまま人生に役立たない記事やコラムを目で追い、30分で席を立つ。
河島英五の「時代おくれ」を自分に酔って歌うようで、苦笑するばかりです。
ネクタイ姿の客はほとんどいず、たまに講義が終わった教授らしき人をカウンターに見かけたくらいです。10人も入れば満席の店で、4年間、大人の空気を吸いました。阪神大震災の日も、オウム真理教の地下鉄サリン事件のときもこの店にいました。
一度、友人たちを誘ったことがありました。大きく後悔しました。大人の嗜みを心得ていない未熟な学生が、店内で大声で騒いだり、他の客に迷惑をかけたりして雰囲気を壊しました。
お手伝いの方は楽しかったようで「また呼んでよ」と言われましたが、私は違いました。
「居場所がなくなってしまった」
友人たちも合わなかったのでしょう、足が遠のき、元の小さな喫茶店に戻り、安堵しました。
そんな大事な居場所とも別れの日が来ました。曇天の3月、大学帰りにいつものように、喫茶店に寄りました。客は私一人です。
「卒業しました」
「あら、おめでとう」
ふくよかなママさんと会話らしい会話をしたのは初めてでした。いくつか思い出話をした後、いつものように30分で切り上げました。
お祝いでタダでいいと言ってくれました。
「出世払いで払います」
実は初めからそのつもりでした。就職活動に失敗して、未来は真っ暗した。でも、誰にも頼らない、ゼロからのスタートの決意を、誰かに聞いてもらいたかったのです。
思えば私の半生は、喫茶店とともにあったのかもしれません。
大人に憧れて地元デパ地下の小さな喫茶コーナーに初めて入ったものの、勝手が分からず砂糖もミルクも入れずにブラックで飲んだ中学生。
愛知のイベントで知り合った高専生とモーニングを食べて「ここは少ないな」「名古屋はこんなもんじゃない」と、未知の食文化を知らされた高校2年生の夏。
安い切符で旅行し、電車を待つ間に時間潰しで入る、決まって不味かった駅前のコーヒー。
ゼミや卒論準備で週2回は徹夜していた勤労学生時代、深夜勤務終わりで金額以上の充実感を味わった高級ホテルのティーラウンジ。
フリーターで心身の具合を崩しつつありながらも、大阪のキタの超高層ビルからJR大阪駅を見下ろしながら、少しだけ現実逃避できた一杯。
個人経営の喫茶店は、ピーク時の1981年の15万5千軒から、2016年には6万7千軒と半数以下になっています。代わりに延びているのが全国チェーンのカフェです。
喫茶店とカフェの違いは、同じ居場所でも、"to do"(何かをしなくてはならない)を要求されないことだと思います。
喫茶店は何もしなくてもよかった。もちろん、おしゃべりしても、新聞を広げてもいい。そんな、誰でなくてもいられる空間は、もう名古屋にしかなくなってしまったのでしょうか。
学生時代に通った喫茶店をGoogleマップで見たら、店だけでなく、その付近が再開発されていました。
でも、卒業式の日に約束したコーヒー代は、必ず支払いに行きます。――そう思いつつ24年。いつ私は出世払いできるのだろうか。ああ……。
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インスタ映えする?「純喫茶オオハシ」店内