YASUDAがあった風景

大橋輝久

2007年12月20日 07:36

 某サイトにあったバナー広告に驚いて、即座にクリックしてしまいました。

 「よみがえるYASUDA。俺たちの原点。」 http://www.yasuda1932.jp/entrance.html

 静岡県外の人に「昔、サッカーをやってた」というと、驚嘆されます。あそびでボール蹴りしていても、
 「おおっ、止めた。すげえ、トラップした」(←当たり前だ!ノートラップでパスするほうがよっぽど難しいわ)
 「おおっ、インサイドキック!さすがサッカー王国静岡」(←昔からの癖でサイドキック以外できないの!)
 と、わけのわからない感心をされます。
 サッカーやってたって言っても、小学生のときだけだもん、とは言い出せない雰囲気がそこにはあります。

 当時、その程度のキャリアの人がたどるサッカー用品の歴史というのは、だいたい決まってます。スパイクはだいたいアシックスかプーマが値段も手頃だし、小さな町のスポーツショップでも扱っているということで、そこから入りました。みんなが同じものを履いていると、やっぱり違うものがほしくなり、やや値が張る三本ラインのアディダスなんて、憧れの的でした。
 そんな田舎の弱小小学校スポーツ少年団のなかにも筋金入りのサッカー小僧がひとりくらいはいるものです。その人は、アディダスとは似て非なる、二本線のスパイクを履いていました。
 甲が平べったい、外国メーカーに比べて垢抜けないデザインでしたが、誰もが一目置く人が持っていたので、こりゃただものではないなと思っていました。サッカー雑誌(当時は月刊!)にも広告が載っており、代表選手も使っているものでした。
 それがYASUDAでした。
 えっ、何それ?そんなブランド知らない?
 ふっふっふっ、あなたは98年フランスW杯以降にサッカーを知った、ミーハーファンですね。
 まあ、知らないのも無理はないですね。なにせYASUDAは2002年、日韓W杯の直前に倒産しているのですから。

 詳しくは前述のサイトに詳しく書いてあるので読んでいただきたいのですが、私がサッカーをしていたときからシェアは相当に低下していました。「通好み」といえば聞こえはいいのですが、海外・国内の大資本メーカーにブランド競争で敗れてしまったのです。そして社名変更、遅すぎた有名選手とのライセンス契約、ブームに乗ろうと業務の範疇外の事業に進出、と、今読めば絵に描いたような転落をしていることがわかります。
 でも、私と同年代のサッカーフリークにとって、YASUDAは切っても切れない関係にあります。私が愛用していたピンクと黄色の蛍光色のラインズマンフラッグ(ラインズマンとは線審=副審のこと。反則などのときにパッと手にしている旗が揚がるので今度よく見てみよう。要するに、レギュラーになれずに審判ばかりやらされていたということ。はっはっはっ)や、四隅に立つコーナーフラッグもYASUDA製でした。
 また、弟も同じチームだったのですが、賢兄愚弟の間逆で、よくできた奴ですから、花形のFW(より正しくはCF。小学生時代の翼くんのポジション)だけでなくGKもやらされていたわけです。弟が最初に買った軍手にゴムが付いただけの一番安いキャッチンググローブも、YASUDAのものでした。

 そのYASUDAが、細々と生き残り、今年秋にはサッカーブランドに再挑戦(正しくは再々挑戦)するとのことです。どうやらソニーミュージック社内に熱烈な信奉者がおり、その人がかつての関係者を煽ったらしいです。
 最初はジャージとTシャツだけですが、そのうちスパイクを、という夢がそこにあるそうです。
 私はプレイヤーとしては多分縁がないでしょうから、金銭的援助はできませんが、やはり、いつかそのうちまた二本ラインのスパイクが復活することを切に願っています。

 同じことを思っている元サッカー小僧のオヤジも多いはずです。
 ナイキのスウォッシュラインはサッカーには絶対に違和感があるって思っているオールドファンは私の他にもいるでしょうから。
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