『運命の人』感想・「情を通じて」

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 官僚のネーミングセンスの上手さにはいつも感心させられます。いまドラマが放映されている城山三郎『官僚たちの夏』にも出てきますが、旧通産官僚が、自動車会社の新規参入を制限する法律名をあれこれ考えた末に「特定産業振興臨時措置法」なんて穏やかなものにするなんてシーンがあります。
 最近ならば、ハンディキャップを負った人を社会に放り出してあとは知らんぷりをすることを「自立支援」なんて言ったりするそうです。他にも思いつくだけで「平和維持」とか「長寿医療制度」とか。霞が関で安月給の公務員をやっているよりも、電通や博報堂に転職して華やかなコピーライターをしたほうが向いているのではないでしょうか。
 官僚とはちょっと違いますが(似たようなものとも言えますが)、国家権力の末端の検察官が作った名コピーに、「情を通じて」なんていうものがあります。

 山崎豊子『運命の人』全4巻(文藝春秋)は、外務省機密漏洩事件をモデルとした小説です。沖縄の本土返還交渉で、本来アメリカ軍が支払う原状回復費用を日本が肩代わりしていたという外務省の密約をスクープした実在の記者(現在も存命)がモデルです。
 私の生まれる前の話なので、本や口伝えでしか知らない事件でしたが、小説を読んで、かなりのデティールの細かさに助けられて全容を知ることができました。膨大な資料と証言を得て、それを一大大河小説に仕立てた山崎豊子の筆力は並大抵のものではありません。たぶん水面下では映画化・テレビドラマ化権の争奪戦が始まっていることでしょう。

 外務省機密漏洩事件、通称「西山事件」の本筋は、政府が沖縄返還に対して支払う必要のない金をアメリカに払っていたことです。もちろん税金ですし、独立国家同士の交渉としても卑屈に過ぎます。金で沖縄を買ったと言われても仕方がないことです。しかも当時の佐藤栄作総理がのちにノーベル平和賞を受賞しているのですから、個人の名誉のために金を払ったとの見方もできます。
 その事実を政府・外務省はひた隠しにしていましたが、記者は外務省女性事務官から入手した電文をもとに記事を書き、さらに電文を野党国会議員に渡して追及させました。電文からネタ元が割れ、女性事務官は逮捕、記者も「そそのかし罪(教唆)」とやらで逮捕・起訴されました。

 これには各新聞社一斉に反発し、「知る権利」の侵害だとしてキャンペーンを繰り返しました。もちろん批判はありました。最近では元通信社出身の政治評論家が、朝日新聞の石井清記者が取材源を秘匿するために裁判所で証言拒否をして有罪判決を受けたことと比較し、また紙面で批判するべきところを国会議員を利用して世論を喚起しようとしたことなどを理由に激しく非難した論文を書いていました。
 これらについては当然、賛否あるでしょう。私としても全面的に賛同することはできません。しかし、議論は別のところに向かってしまいました。

 「情を通じて」

 記者の起訴状にこの言葉が書かれると同時に、世論は一気に逆転しました。今でこそ「不倫は文化だ」とうそぶく芸能人もいますが、当時は相当にショッキングな言葉だったようです。記者が女性事務官と肉体関係にあり、それを利用して国家機密電文を入手していたわけです。世論の猛反発に遭い、新聞各社のキャンペーンは総崩れとなり、記者の在籍していた新聞社は不買運動で部数が激減し、現在に至る低落につながっていきます。

 さて、ここであなたならどう考えますか?記者は明らかに当時の社会的モラルを逸脱した行為で機密文書を入手しました。どちらから持ちかけたかとか、ベッドの中でどんな会話があったのかは、男女の間の話なのでもちろんわかりませんが、女性だったら、利用されたと怒るかもしれません。
 しかし、もう一つ確実に言えることは、もし記者が女性事務官から文書を入手しなかったら、日米間の密約は永遠に世に出てこなかったということです。

 実は、ジャーナリストが法や社会規範に反して事実を伝えたことは無数にあります。思いつくだけでも、朝日新聞の大熊一夫記者が精神病患者のふりをして精神病院に偽装入院した『ルポ・精神病棟』や、ルポライターの鎌田慧氏がトヨタの期間工になってルポした『自動車絶望工場』などは、身元を明らかにするという取材のモラルに反した大きな仕事です。身分偽装ならばカメラマンの宮嶋茂樹氏とコラムニストの勝谷雅彦氏が北朝鮮に極秘潜入したこともあります。取材のモラルに反しますが、そうでもしなければ、当時の精神病院や大手自動車会社の最底辺労働者や北朝鮮の実情はわからなかったでしょう。
 最近ならばNHKのドキュメンタリーに政治家が事前に介入して改変されたとの疑惑で、インタビュー時にこっそりと録音テープを回していたということがジャーナリストの魚住昭氏によって明らかにされました。これだって、取材倫理違反ですが、後に総理大臣や財務大臣になる大物政治家の番組介入が証明されました。
 違法行為や政府と対立関係になった例ならば、それこそ数限りがありません。サツ回りの記者はことごとく「そそのかし罪」だし、敷地内で夜討ち朝駆けをしたら住居不法侵入です。ペルーの日本大使館占拠事件では共同通信の記者がテロリストに取材し、ANNの記者が大使館敷地内に入り取材しようとしました。外務省と対立してロシア側から北方領土に入って取材した人もいますし、黒田清子さん(紀宮さま)の結婚式のときには宮内庁からの規制を破ってNHKがヘリを飛ばしました。ある写真週刊誌は、昏睡状態にある小渕元首相の病床での姿を盗撮しました。
 これらは、法や国益に反する行為です。しかし、そこまでしなければ政府や企業が隠し続けて永久に国民の目に触れなかったでしょう。

 プライベートの部分はわかりませんが、事態は小説と同じ経緯をたどります。記者は一審で無罪、控訴審で逆転有罪、最高裁で上告棄却で有罪が確定し、新聞社を追われました。小説では記者はすべてを失い沖縄へ渡り、しかしいまなおペンを握り続けているとなっています。30年後、記者のスクープを裏付ける公文書を琉球大学教授が発見し、事実であったことが証明され、元外務省キャリア官僚も密約の存在を証言しています。しかし日本政府はいまだに密約の事実を認めていません。
 そして最近もまた、沖縄への核持ち込みの密約があったと外務事務次官経験者が認めたと、共同通信ほかが報じました。

 時を経て、多くのジャーナリストや評論家や学者が冷静に振り返り、どんなことがあっても記者を守り通さなければならなかったと反省を込めて述懐しています。
 事件そのものにはいろんな意見はあるでしょうが、この小説には、当時を知らない私のような世代にも伝わる、権力の狡猾さと、人間の弱さと強さが書かれています。主役の記者だって、決して正義のヒーローではありません。特定の大物政治家に食い込んで世論を形成しようとする姑息な役回りを演じたりします。
 それでも、剣よりも強いといわれるペンが、起訴状のたった一言により簡単に折られた歴史と、そこに積み重なる人間の生き方には学ぶべき点が多くあります。
 そして私の思いは沖縄へ飛ぶのです。

 しかしまあ、読日新聞のナベ……、じゃなかった、山部記者、いい人に書きすぎ。(つづく


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